08 唄声
夏であるにもかかわらず、肌寒い日だった。
冷蔵庫が要らないと思うほどだ。
インター・ホンが鳴った。半音下がった「ミ」と半音上がった「ド」がナギを起こした。どこか故障をしているのか、音楽を作る住民でも音を出す機械は直せない。面倒臭がって修理をしていない。鳴るたびに不快な気持ちになる。人を呼ぶような音ではない。しかしそれゆえに、妙な愛着が湧いてきた頃だった。
この家に来る人間は限られているため、インター・ホンの音で集金や契約、勧誘などの不快さを思い出すことはあまりない。特に、今回のような訪問人に関しては。
「おはよう、ナギ。寝てた?」
クリーム色のノーカラー・シャツと、青色のプリーツ・スカートが同時に目に飛び込んでくる。どちらも生地は薄くないようで、ヒダリも今日は冷えると予感していたのだろう。ホワイトアッシュのロング・ヘアはいつも以上にまっすぐに伸び、着る者をお淑やかに演出していた。こんなふんわりとした服を着てみたいものだ、とナギは思う。
「うん……どしたの。まだ8時だけど」
「学校は?」
「サボる」
「サボ?」
眉間に薄くしわを作るヒダリ。
「人間は堕落に抗う生き物では?」
「太陽は地上を照らしているのではなく、ただそこに恒星と惑星があっただけ」
「必然性を説くのなら、天文学より人間原理の方がよっぽど健康的だよ」
「私はロマンを信じるタイプなの」
「前と言ってることが逆だね」
自己矛盾よ、とナギは内心で呟いた。
ナギの腰に、柔らかな重さがのしかかった。女の子が眠気まなこをこすりながら、探るように手を伸ばしていた。小さな子が持つほんのりとした温かさに、ナギは軽くあくびをした。
「こういうことなので」
「どうやら、情が出たのはキミの方だったようだね」
まだ完全じゃあないわよ、と言いかけてやめる。ヒダリが何かを悟ったような薄ら笑いを浮かべていたからだ。彼女は軽く蹴り出すように、赤いサボ・サンダルを脱いでいた。
「ヒダリは?」
「ボクもサボする」
「いいね。暗黒面のパワーは素晴らしいわよ」
「暗黒面には入らない」
簡単にエッグサンドを作り、紅茶とともに食卓を飾った。
卵は一週間前に賞味期限が切れていたが、味は悪くなかった。
ボクにもちょうだい、と言うのでヒダリにも作った。
女の子はまた吐き出す悪癖を発動していたが、口元を無理やり抑えて防いだ。こんな食べさせ方、本当の育児だったら虐待だ。今後は絶対にしない、とナギは心に誓う。
「学校を休んだ日の遅い朝ごはんは別世界の味がする」
「誰の受け売り?」
わふれふぁ、とヒダリは頬張ったまま紅茶を啜り、こくんと喉を鳴らす。
「そして、誰かと食べるご飯はおいしい」
「まったくもってその通り」
ナギの口の端からパンのくずがこぼれる。
「この頃、誰とも食べる機会がないから」
「ボクもだよ。なんだか、あったかいね」
夏のせいでしょう、とナギは言わなかった。
朝食を終え、食器を洗っていると、居間からヒダリの歌が聴こえてきた。
水道水の音の隙間を縫って耳に届くメロディは懐かしいものだった。
「あの子の命はひこうき雲……」
どうして彼女がその歌を選んだのか。
おそらく、彼女をそうさせた何かがあったのだろう。
流し台から覗くと、ヒダリは窓際の縁にもたれかかって空を眺めていた。
窓の外には大きな入道雲だけが浮かんでいる。
飛行機雲はどこにも見当たらない。
しかし、それでいいのだろう。
ヒダリの瞳には、目には見えない飛行機雲が映っているはずだ。
そして、その傍で女の子も空を見つめていた。ただ傍にいるのではなく、ヒダリに寄り添っているように。後ろ姿からでもはっきりと分かる思慕があった。
いったい、どちらが子どもなのか分からなくなる。どちらも子どものようであり、大人のようでもある。静かな佇まいは、人を大人びて見せるらしい。
「ふう」
洗い物を終え、ナギも窓際に歩み寄る。
ヒダリの儚げな歌声は、あの眩しい空に溶けていくようだった。
太陽は入道雲に隠されている。
それでも、空はどこまでも青い。
ヒダリの歌声は、この自然の風景と調和をしていた。
音色が風景と絡み合い、互いを引き立て合う。
音楽でいう、メロディとリリックの関係のように。
その両方を味わったナギは、ここではないどこかに居るような心地になった。
夢のようで、現実でもあり、今であり、過去であり、未来である。そんな捉えようのない、不思議な心地に。
「じっくり聴かれると恥ずかしいな」
「ねえねえ」
ナギは無意識に声を発していることに気付かなかった。
「海、行かない?」
「いいよ」
ほのかな風がヒダリのホワイトアッシュを軽く揺らす。
「珍しいね。ナギからそう言うなんて」
「あなたの歌のせいよ。こんな気持ちにさせたんだから」
「それは申し訳ない」
そう言うと、ヒダリは小さく微笑んだ。
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