09 入水


 子どもの頃、海が嫌いだった。

 浜風の匂い、砂浜の感触、海水の塩辛さ、灼熱の太陽、汗の不快感、濡れた髪の毛、水着の中に潜り込む泥、手足が冷えきる感覚、人の多さ、その嬌声、濁りきった水、それらに対して憂鬱になる自分自身——あの場に有る、何もかもが嫌だった。

 周りの人間は皆楽しんでいる。こんなことなどいっさい考えないのだろう。海と一緒に、あるいは海を利用した人間関係に、陶酔しているのだろう。

 自分は人間社会に不適合なのだと、そう思った。

 それは海だけではなく、どこにいても感じることだった。学校、家庭、学習塾、ピアノ教室、飲食店、スーパー・マーケット、公共機関、どこにいても落ち着かない。安息の場所は自室とトイレの個室、真夜中のコンビニぐらいだった。

 それほどまでに、人間社会から落ちこぼれた存在なのだと思い込んでいた。

 自分の感情に折り合いを付けるのにはかなり時間が掛かった。

 そして、過去の負い目は傷跡として残り、今に至る。

 

(海、うみ、ウミ……)


 ナギが自分から海に行こうと言い出したのは、ヒダリの言う通り珍しかった。

 初めて人を誘ってどこかへ行こうと思った。ナギを駆り出したのは、ヒダリのせいであったが、そうではないような気もする。あるいは、もっと別の、ナギにも予想がつかない、であるかもしれない。

 海風は肌を刺すように冷たかった。


「つめたっ」


 裸足で波打ち際を歩くヒダリが甲高い声を上げる。

 大きな入道雲はまだ太陽を隠したまま、蒼空に漂っている。


「冷たい海っていいね。ゾクゾクする」


 能天気なヒダリの言葉に、なにそれ、とナギは苦笑する。


「好きね、そういうの」


「うん。だって、冷たいって感じることが嬉しいから」


「マゾね、ヒダリは」


「そうかも」


 ぴょんぴょんとヒダリが飛び跳ね、飛沫がきらめく。


「生きるってマゾだね」


「作ることもマゾ」


「人類みなマゾだ」  


 その後もヒダリは言葉の響きが気に入ったのか、何度も確かめるように「マゾ、マゾゾ、マゾゾマゾ……」と呟いては口元をほころばせた。そのヒダリの声に応じるように、ナギの思い出の中に潜んだ、あの海の光景が顔を覗かせた。

 しかし、思い出した嫌悪の海と、ヒダリといるこの海との差はあまりにも大きく、めまいがするほどの気持ち悪さを感じた。まるで真っ暗闇の中で強い光を見つめた時の、目玉が溶けるような、あの感覚だった。

 戸惑っていると、ナギの左手が握られた。それは女の子の冷たい手だった。誘拐して数日経った今でも、体温は低いままだった。女の子が海に向かって歩き出した。ナギは引っ張られるまま靴を脱ぎ、砂と泥を経由しながら、波に素足を浸した。


「しゃっこいっ」


 目の裏がツンとした。かき氷を一気に口にした時と同じだ。

 海底の砂は何処を踏みしめても柔らかかった。が、たまに固い物を踏むことがある。石か流木だろう。ウニのような刺々しいものを踏んだらどうしよう、と不安になる。

 そんなこともお構いなしに女の子は進み、反対の手でヒダリの右手を握った。「いいね、ウミちゃん」とヒダリが笑う。

 中心に立った女の子が、波打ち際と並行に、海を歩く。

 ナギとヒダリは引っ張られるまま、三人で小さな波を作る。


「すごく冷たいね」


「寒いけどね……でも、悪くはないわ」


「ナギはマゾだから」


「ヒダリもでしょう」


 歩いていると、足元には水泡が立ち、消えていった。

 泡が生まれ、消え、また生まれ、消える。

 ナギの中にある、あの嫌いだった海の光景も、泡になって生まれ、そして消えていく。

 あんなに嫌悪を抱いていたはずだったのに。

 どうして私はあれほど海を憎んでいたのだろうか?

 海は私のものではないのに、どうして私物のように好悪を決めていたのだろうか。


 私のような人間よりも、海は、ヒダリのような人を受け入れるのだと、そう思う。


「あ」


 ヒダリが声を上げると同時に、入道雲から太陽が顔を出した。

 頭上から極光が降り注ぐ。

 目の前の人たちの輪郭が溶ける。

 海の青が、空の蒼が、全て、真白に染まる。


「う」


 冷たかった足元が熱湯のように感じる。

 世界から音が消え去る。

 呼吸の仕方を忘れそうになる。

 上はどこか、分からない。

 見るべき場所は右か、左か、分からない。

 ヒダリはそこにいるのか、分からない。

 女の子は——。


「お」


 再び、ナギの身体が引っ張られる。女の子の手はナギの手を握ったままだった。ナギはその力に抗おうとはしなかった。膝まで浸かった波が全身の力を奪う。足元の泥が、安定を拒む。

 手はナギを優しく誘導していく。

 気が付けば、波は胸元まで迫っていた。不思議と危機感はなかった。海で溺れた経験がないからだろうか。水難事故、という言葉さえはっきりと思い浮かべているのにもかかわらず、足は導きのままに進む。

 とうとう、口に海水が入り込んだ。強い塩分に喉が締め付けられる。不快にはならない。この塩辛さは、どこかで口にしたことのある味だった。記憶を辿ろうとも、思い出せない。辛うじて見つけた記憶は、自分の汗の味だった。


「…………」


 目の先で水面が乱流している。視界は霞んだりはっきりしたり、ぼやけたりピントがあったりを繰り返した。潮が眼球に当たる。不快にならない。痛くとも閉じようとしない。もはや、自分の身体は自分の物ではなくなったかのように思われた。

 頭頂部までが海に浸かる。身体が海の中へもぐる。





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