06 誘惑


「魚はおいしいけど、人間はおいしいのかな」


 風のない海は穏やかだった。

 やる気を失ったような波が砂浜に上がって来ては、すぐに踵を返していく。

 残された砂はその場で静かに湿っていた。


「やめなさい、子どもが聞いてるんだから」


 ヒダリのホワイトアッシュが波を打っている。白鳥が翼を広げたかのような長髪に目がくらむ。今日も彼女は全身で純粋さを表現していた。蜂蜜色をしたシースルーのブラウスシャツがここにきて彩光を放っていた。透けた布の先の真白い肌との甘いオーバーレイに、再び目がくらむ。ヒダリはいつでも眩しい。

 その発光から逃れるように、ナギは持ってきたジンジャー・エールを飲んだ。辛味と強い炭酸が喉を焼く。それでも一気に半分まで飲んだ。ペット・ボトルの底で、しゅわしゅわと液体がうなる。


「それで……どうする、この子」


 女の子は両手をぶらぶらと下げたまま、ナギの腰にべったりと張り付いていた。たびたび彼女の額がナギの腸骨にぶつかり、腹部に小さな衝撃が走る。接触部分に手を当てると、今度はそこへ額をぶつけてくる。生温い額だった。溶けきった保冷剤のようだった。やはり急な懐き方に、ナギは再びうろたえる。母性が生まれるのも時間の問題か——そう思った。

 平日の浜辺に人影はひとつとしてなかった。女の子と出会った場所にも、保護者らしき姿は見られなかった。

 頭上に昇った太陽が、容赦なく地上を焦がしている。

 ぼーっ、と低い「ド」の音がかすかにする。どこか遠くで汽笛が鳴っているらしい。


「海に返してみようか」


「はい?」


「冗談だよ」


 猫のような丸い微笑みをヒダリは転がしている。それは単なる冗談だったため、ナギは真剣には考えなかった。彼女は本当に、突拍子でもないことを言う。行動も突拍子がないし、言葉にも突拍子がない。佐野ヒダリの全身は、突拍子のなさで出来ている。


「冗談じゃあなかったら」


 ナギはそんな彼女にようやく慣れてきたと感じている。


「この子はやっぱり、海から来たのかしら」


「わからないからこそ、こうして出会いの現場でのんびりすべきだよ」


 ヒダリは果たして、全てを見通している様子だった。

 琥珀色の砂粒が、踏まれた靴の裏でうごめいている。柔らかいものを足で潰す、罪悪感にも似た感触だ。土でもなく、泥でもない、砂という互いの結び付きの緩い物質。踏んだところからぱっくりと崩れてしまうのではないか——と、ありもしない不安を感じることがある。蟻地獄に迷い込んだ蟻のような気分になる。

 波の音だけが鼓膜を震わせていた。一定のリズムで刻まれる生命の象徴。この波の揺れが生物を産んだ、母なる海そのものだ。数多もの生命、その延長線上に、ナギは立っている。

 いったいどうして、波自身は産まれる気になったのだろうか。誰が波を起こしたのだろうか。湯船に浸かると波紋が広がるように、誰が海に浸かったのだろうか。波自身はほんとうに産まれたかったのだろうか。

 静寂に浮かぶ波の調べは、ナギの心の奥底に広がる水面を穏やかにさせた。精神の水面には、様々な考えが投影されては霞み消える。地球や宇宙という壮大な事象から、ナギの身の回りにしか及ばない矮小な出来事まで——。


「…………ん、んぅ……」


 気付いた頃には、ナギは砂浜に座って頭を垂れていた。肩に掛けられた蜂蜜色のブラウスシャツから柑橘と樹木の香りがする。山と海に囲まれたような匂いに、ナギは大きなあくびをした。首筋がかすかに痛んだ。

 脇腹あたりに重さを感じ、横を見やる。

 女の子がナギの二の腕に頭を預け、海を眺めていた。その横顔に、ナギは息を呑んだ。幼いはずの容貌が大人のそれに見えたからだ——いや、違う。もっと遥かな、大人以上の何かがそこにあった。人間という尺度では図り切れない、人間以上の歴史が、その顔には宿っているのだと、そう思わずにはいられなかった。

 そう思うのは寝起きのせいであったが、女の子の瞳のせいでもあった。真黒に近い濃藍色をしている瞳は、海を眺めているその時、確かな碧色を従えていた。濃藍色を含んだその色彩は、海のように輝く、マリン・ブルーだった。

 ナギはまた、この瞳に吸い込まれていた。マリン・ブルーの瞳は、光が差した深海のように思えてならなかった。私は今、彼女の瞳を通して、海の底を見つめているのだと。


「おはよう、ナギ」


 逆光に身を曝したヒダリがそう言った。太陽光に包まれた彼女は、キャミソールにデニムパンツと薄着であるにもかかわらず、気品さを醸し出している。ファッションは着る者が全てである。


「ふぁぁふ……どのくらい寝てた?」


「さあ、7分くらいかな」


 彼女は大して気にしていないそぶりを見せた。


「ちゃんと寝なきゃあダメだよ」


「きのう変な夢を見たから、そのせいかも」


「どんな夢だったの」


「アンダーグラウンドについて」


「あら。ヒッピーにでもなったの」


「海の中でサマー・オブ・ラブを」


「夢の中ではロックン・ロールが生きていたんだね」


「朝起きたらびっしょり汗をかいてたわ」


「麻薬はほどほどにしときなよ」


「煙草しか吸ってないわよ」 


 逆光に目が慣れると、ヒダリが貝殻を握っていることに気が付いた。白い巻貝に光が当たり、青白く見える。海に染められたような鮮やかな色だった。

 ヒダリは巻貝を耳に当てた。それはまるで、絵画から出てきてしまったような、夢の一片を現実に持ってきてしまったような、目の覚める光景だった。波の囁きが、風と重なり合い、遅れて聴こえてくる。


「海がきこえるよ。貝がらの中から」


「なんてロマンチシストなの」


「殻の奥にまで音が染み付いているんだろうね」


「空気が波と共鳴してるだけよ」


「なんてリアリストなんだ」


 貝殻の鳴き声を堪能したヒダリは、彼女を見つめる視線¬——大きく開かれたマリン・ブルーに気付き、微笑みと一緒に女の子に巻貝を渡した。女の子はヒダリがやっていたように、耳にそっと巻貝を当てた。

 ナギもそこへ耳を近づけてみる。


 波の音がする。


 はっきりとした、潮騒と。

 おだやかな、細波。

 まるで、まどろみの中で声をかけられているような、ぼんやりとした音。


「…………あ」


 海から柔らかな手が伸びてくるように。


 おいで、おいで、と。


 ひそかに、優しく語りかけてくる。



 その手招きに、かつてない心地よさを感じる。



 仲の良い友達に会いに行くような気持ちになる。



 長期休みに実家に帰るような気分になる。




 ここではないどこかではなく。




 そこにあるはずのそこへ。

 




 波の音がする。




 

 まどろみの中で、声がする。





 おいで、おいで、と。






 私はそこに行きたいと願う。




 



 この身体を、沈めたいと望む。








 快楽を得ようとする、この意志は。








 生き物にとって当然のだ。











 海に、











 海に。















「ナギ!」


 波の音がする。


 腰元まで海に浸かっていた。せり上がった波が肩で砕け、泡沫を残した。つま先に硬い石の感触がする。自分の左手が掴まれている。

 柔らかな手だ。何を食べていたらこんなに柔らかくなるのだろうと疑問になる手だ。水に濡れている、温かい手だ。握ったことのない、小さな手だ。


「…………あ……」


 ナギを呼んだ声が、頭の中で反響していた。たしかに今、名前を呼ばれていた。おそらく、彼女はずっと呼びかけていたのだろう。ナギがこうして海の中で気付くまで。そして、ナギがこうして海の中に進んでいく手を。


「そんなに人魚になりたいの?」


「……いや、あー、……」


「人だけは、辞めちゃあダメだよ」


 手を引っ張られながら砂浜に戻る。浜辺では、女の子が呆けたようにナギを見上げていた。彼女に握られていた貝殻がなくなっている。あのまどろみの中で、何が起きたのだろうか。


「……ごめん、ヒダリ」


 貝殻をなくしたのはナギかもしれない。それに加えて、自分を助けてくれた存在に、二つの意味を込めて謝罪をした。彼女はナギを見ずに「かまわないよ」と言った。


 波の音がする。


 日が暮れた頃に、彼女は「夜はちゃんと寝なよ」と言葉を残して帰った。



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