05 偏食


 煙草の吸殻を空き缶に落とすと同時に、ミニテーブルに料理が運ばれてきた。

 昨晩に余ったご飯とサラダに、1尾の焼き魚——サカナ。


「ヒダリ」


「なあに」


「親子はどこへ?」


「実家に帰らせていただきました」


「根本的に解決しないわよ、それ」


「時間はどんなものだって解決するさ」


「楽観的な家庭なのね」


 調理器具の片付けを済ませたヒダリが食卓に着き、三人で向い合う。


「……というか、魚なんてあった?」


「あったよ。活きの良い個体がね」


 ヒダリはナギと視線を合わせずにそう言った。


「まさか、釣ってきたの?」


「まさか。通り道で買ってきた」


 ということは、彼女がここに来た時点でヒダリが料理をすることと、魚料理が振る舞われることは確定事項であったわけだ。選択肢が入り込む余地はない。予測もできず、回避もできない、強制力のある運命だ。


「では、いただきましょうか」


「……いただきます」


 ナギは女の子の隣に身を寄せる。女の子はじっとしたまま、その紺碧の瞳、深海の色で、食卓の中心に置かれた魚を見つめていた。

 ナギは箸で焼き魚をほぐしにかかった。見たことのない魚だった。サバでもアジでも、サケでもサンマでもキスでもない。こんがりと焼けた皮はすんなりと破れた。が、箸に多くの骨が引っかかった。骨の多い魚だった。肉に深く絡みついていて、なかなかほぐせない。


「もらいっ」


 横からヒダリの箸が伸びてきて、ナギがほぐした箇所を奪っていった。どうやら現代のロビン・フッドがここにいるようだ。そうなると、ナギはさしずめ 、リトル・ジョンか。高身長ぐらいしか共通点はない。

 やっとの思いでほぐした塊を、女の子の口に差し込んだ。

 昨日の悪夢が再来するかと固唾を呑む——しかし、その気配はまったくない。女の子は唇を合わせ、静かに咀嚼そしゃくをしていた。ナギは拍子抜けをした。

 女の子の懐き方といい、この成長といい、全てが急すぎる。いくら子どもでも、ここまで早いわけがない。ナギだって、もっとじっくりと大きくなっていったはずだ。


「やっぱりナギのこと、信頼し始めたようだね、ウミちゃん」


 全てを見透かしたようにヒダリが言った。その左頬には米粒が付いている。


「冗談でしょ。認めないわよ」


「魚心あれば水心あり、だよ」


「この子は人ですが」


「水魚の交わりまであと少しだ」


「アワビの片想いで終わってほしいわ」


 次は貝類を食べたいね、とヒダリは呑気なことを言っていた。

 女の子を世話しながら、ナギも魚の身を口にした。引き締まった肉が持つ旨味に、思わず舌が縮んだ。一人暮らしを始めてから久しぶりの魚料理は、今まで食べたことのない、新しい味のように思えた。サカナ、こんなにもおいしかったのか——箸が止まらない。骨が多いことも気にせず、そのまま飲み込む。喉に刺さった小骨を白米で押し通す。その白米が、更なる食欲を引き起こす。魚、米、魚、米、終わることのない無限ループだ。

 あっという間に、魚は頭部・尻尾・背骨を残して丸裸になった。肉はひとかけらも残っていなかった。


「すごい食べっぷりだね。まるで何かに取り憑かれてたみたい」


「あなたが魚を買ってきたからこうなっただけよ」


「結果論だ」


 ヒダリは自身の左頬に付いた米粒に気付き、指で取って食べる。


「魚、おいしかったね」


「何を買ってきたの?」


「ふぁあ、ふぃらふぁい」


「自分で買ってきたくせに」


 白米をもぐもぐと噛むヒダリを後目に、ナギは女の子に白米を食べさせる。女の子はぷへぇ、と口から塊を吐き出した。先ほどのおとなしさはどこへいったのか、昨日の悪夢の遅い再来だった。寸前まで出かけた舌打ちを、ナギはぐっと飲み込んだ。



 § § § § § §



「むむむむむむむむむ」


 魚を堪能し、洗い物を終えてから、ナギは音楽制作に取り掛かることにした。

 ここのところ、作業は難航を極めていた。自分の中から生まれるメロディにやはり納得がいかないのだ。もちろん、今しがた打ち込んだフレーズも悪くはない。だが、もっと他に良いもの——最善というべきか——があるはずだと疑ってしまう。その可能性に縋っているうちに、今度はたたき台となったプロトタイプさえも悪いものに聴こえてくる。文字通り、沼にはまった状態になっていた。

 視界の端では、ヒダリがひざの上に女の子を乗せていた。道中で拾ったのか、青々とした夏草を太陽に掲げては、葉の裏に走る葉脈の筋や、床に浮かぶ淡い影を観察していた。女の子にとっては新鮮な光景なのだろう、影を指で擦ったり、つまもうとしたりしていた。


「ナギ、そろそろ煮詰まってきた?」


 次にヒダリの声が聞こえたのは、午後三時を過ぎた頃だった。2時間も座り続けて作っていたにもかかわらず、出来たのはギターのバッキング・リフのみだった。しかも数日前に作っては削除したフレーズとほぼ同じもの。「んがぁあ」とナギはモニター・ヘッドホンを投げ捨て、畳の上に寝転がった。


「ぜーんぜん」


 網戸に張り付いた蝉がやかましく鳴いている。


「水を得た魚になりたい」


「おいしく食べられるだけだよ」


「人間のまま魚になる」


「半魚人になるんだね」


「せめて人魚って言ってよ」


 畳を指でなぞる。その隙間に、ジジジ……と蝉の声が挟まってくる。


「前もそんな感じだったよね」


 立ち上がったヒダリは網戸を指で弾いた。キキッ、と蝉は飛び去っていった。

 静閑が浮き彫りになった中、隣部屋の室外機の音だけが鳴っている。


「休みも大切では?」


「人間は堕落に抗う生き物なのよ」


「呼吸をしているだけでえらいよ」


「じゃあヒダリ。呼吸を休んだらどうなる?」


「極端な例だ」


「それくらいなの。音楽を創る喜びって」


「ナギはマゾなんだね」


 そうかもね、とナギは苦笑する。

 完成した喜びという美味が忘れられず、再び茨の道や獣道に足を踏み入れる。完成品に納得がいかなくとも、上手く作れなくとも、作品を壊しても、そこに道がなくとも、関係がない。また一歩を踏み出す。たとえ、たどり着いた結果に喜び、あるいは哀しみ、有頂天になり、無力を呪い、どうして自分は音楽を創っているのだろうと疑心を抱いたとしても、創造は——あるいは破壊は——繰り返される。たった一回、地面を蹴り、終わりまで走り続けるスケート・ボードのように。達成感という一回きりの推進力だけで。


「締め切りは?」


「一週間後」


「もうすぐじゃん。大丈夫?」


「デッド・ラインは人を成長させる」


「死線症候群にならないといいね」


 そのままヒダリは言葉を続けた。


しようか?」


「どねいとぉ?」


 突然の横文字にナギは素っ頓狂な声をあげた。

 身体を起こし、ノート・パソコンのキーボードを叩く。裏で作曲ソフトが起動しているせいか、検索エンジンは「どn」を表示したところで淡い白に包まれた。カーソルがぐるぐると円を描いている。その間に、再び蝉が網戸に止まった。彼は鳴かなかった。

 やっとの思いで検索した結果には、こう表示されていた。



□ドネイト[donate]


 ・貧しい人や困っている人達を助けるという意味で何かをあげること。

 ・「寄贈する」「寄付する」など。

 ・臓器の提供者のことを「ドナー」という。臓器提供を受ける者は——

 


「私は貧しい人じゃあないわよ」 


「そういうことじゃあなくてさ」


「嬉しいけど、大丈夫」


「それも一種の抗い?」


「そうかもね」


「そうなんだ」


 そうではない気もするが、そういうことにしておいた。 

 パソコンをシャット・ダウンさせ、ナギは大きく伸びをした。身体中から骨の音が鳴る。肩に強い衝撃が走ったりもした。首周りは見えないマフラーでも巻かれているかのように重い。座ったままは身体に良くない。安楽椅子探偵も気楽ではない、のかもしれない。

 眩しいほどの空が、部屋の中にまで侵食してくる。目に染みるほどの蒼だ。


「ねえ」


「なあに」


「海、行こうよ」


 ヒダリの提案に、ナギは苦笑を浮かべそうになる。

 出会って数ヶ月が経ったこの頃、ようやく理解した彼女の習性のひとつ——その突発的な行動力に、ナギはいまだに振り回されている。



 § § § § § § §

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