04 渦巻


「海から還ってくるのは人間じゃあない」


 玄関でヒダリを出迎えたナギは、開口一番にそう呟いた。


「こんな台詞、どこかで聞いたことない?」


ふゃあ、とヒダリは小さなあくびを一つしていた。


「知らないなあ」


「んん……なんだっけな。こういうの、無駄に気になるのよね」


 左足を後ろに上げ、アンクル・ストラップのサンダルを脱ぐヒダリ。彼女は今日も高級そうな衣服を身にまとっていた。特に、この蜂蜜色をしたシースルーのブラウスシャツとか、一目でそうだと理解できる。万年バンドTシャツのナギにはたどり着けない境地だ。

 ヒダリの様子を眺めていると、ナギの腰辺りに女の子がぶつかってきた。両手はだらんと垂らされており、偶然ぶつかったかのような装いだった。ぐりぐりと額が押し付けられ、磯の香りがほのかに漂う。


「どうしてその言葉を思い出したの」


「そりゃあ、決まってるでしょうよ」


「あ、おはよ。ウミちゃん」


「でた、愛称」


「なぁに? 嫉妬?」


「少なくとも羨望ではないね」


「おはよう、ナギちゃん」


 ヒダリはそう言って部屋の奥に向かった。すれ違った際にヒダリの匂いがした。柑橘と樹木が混ざった、緑豊かな空気だった。街中で聞香もんこうをしても、誰ひとりとして同じ匂いはしないだろう。それはナギが彼女に持つ固定概念——つかみどころのない性格とか常識はずれな言動とか——のせいかもしれなかった。ヒダリの匂いは女の子の磯の香りと混ざり合い、まるで山と海を同時に訪れたような錯覚をナギに抱かせた。


「ナギ、お昼ご飯食べた?」


 嗅覚から意識を戻し、女の子を引き連れて居間に行く。


「あれ、ずいぶんと懐いたんだね、ウミちゃん」


「ただぶつかっただけよ」


「昨日と違うよ。なんて言うんだろう、目の輝きかな」


「目の輝き」


 ヒダリは感覚的に物事を捉えるため、理論派のナギには理解が及ばない場合がある。


「そんなスピリチュアルな」


「ほんとだよ。ほら、見てごらん」


 ナギは言われるがまま、女の子を覗き込んだ。黒に近い、濃藍色の瞳。それはナギが見た昨夜の夢、深海の色に似ていた。真暗闇の世界を泳ぐシーラカンス。女の子の瞳に息づく深海の呼吸。眼の輝き、その光。


「……いや、わからないわ」


「まだまだだね」


 両手を広げてやれやれ、とヒダリ。


「心の眼で見るのさ」


「はいはい」


 妙なスイッチが入った彼女は距離を保つに限る、とナギはいつも思う。


「で、ご飯は」


「まだよ」


「親子丼でも作ろうか。ふたりの親睦を祝して」


「やめてよ、縁起でもない」


 ヒダリが台所に立ったので、ナギは窓際で煙草に火を着けた。

 七月の昼空は余白なく蒼で満たされている。

 強烈な太陽光線は全ての色を支配し、浮き立たせる。空をはじめ、アパートから見える住宅や道路、交通標識、置き去りにされた自転車、通行人の黒い頭、電線に停まる二羽のカラス、街の外れにある小さな森、そして海——眼に映るもの全てがナギにメッセージを送っているようだった。

 光という目に見えない情報が持つ役割。太陽が沈むと、今度はこちら側からメッセージを受け取りに行かなければならない。昼と夜の違いは主体性の違いだ。


「……ふぅひぃ……」


 室内に煙が入らないようにしながら、台所の方を見やる。ヒダリがフライパンを豪快に振っている。何かを焼く音が聴こえる。ゆったりとした手つきで塩と胡椒を加えている。箸の先を何度も咥えている。そこまで味を確かめる必要はあるのかと思うが、彼女は自宅では料理をまったくしないらしいので、良い機会にはなっているのだろう。

 煙草の灰を缶に落とし、首をかすかに回す。

 女の子はやはり、ミニテーブルの前に座ったまま動かない。定位置を覚えたのだろう。居心地がいいのか、そこから離れられないのか、どちらでもあり、どちらでもなさそうだった。あの何も考えてなさそうな顔が、先ほどナギにぶつかってきた。


 ずいぶんと懐いたんだね——。


 ヒダリの言葉はずいぶんと無責任なものではあったが、第三者が見ても分かるほど、ナギと女の子の距離はこの一夜のうちに幾らか縮んだのだろう。理解はできないし、認めたくもない。そもそも、この子を拾ってきたのはヒダリであり、ナギがこの現状を求めていたわけではないのだ。子どもが拾ってきた小動物を、親が育てているような状態である。


「……はぉふ……」


 ナギは現時点でも、選択肢を間違え続けているのだろう。

 最適解は——『最後まで面倒見ないなら、うちでは飼いません』。

 最も効率的な手法とは、である。

 事件が起こってからでは遅い。

 そのための教育ではないか。

 ナギの家は便利なコンテナ倉庫でもなければ、保健所でもなく、児童保護施設でもない。ただの大学生が棲息する賃貸アパートでしかない。

 それをヒダリは理解していないのか、この一件だけではなく、他にも様々なものを押し付けてくる。ただでさえ狭いこの六畳一間に、ヒダリ専用の収納箱が置かれたのは記憶に新しい。

 付き合わされる身としては迷惑極まりない。

 他者が強引にパーソナル・スペースに入ってくるのはもっとである。

 人との関係なんてものは、時間と労力と生命力の無駄でしかない。

 そうであるはずなのに、それも悪くはないと、そう思っている自分もいる。

 目に見えるほどの、はっきりとした矛盾だ。

 この心の食い違いは、ナギの苦悩らしきものを生み出す元凶そのもの——自由奔放・無責任な生命体である、その人の言葉を借りて表現するならば、


「フシギ、ね……うん。ふしぎよ」


 煙が微風にさらわれる。白い小さな渦を巻いていた。



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