02 保護
ヒダリの提案という呪縛から解き放たれるのは、決まって一時間後である。
「ねえねえねえねえねえねえねえねえねえ……思うんだけどさ」
「なに?」
「これって……誘拐、だよね」
「保護だよ」
「近くに親がいたかもしれない」
「保護だよ」
「この子が何も言わないからって、押し付けがすぎるのでは」
「保護だよ」
「……役に立たない物事のことって、なんていうんだっけ」
「反故だよ」
六畳一間は高湿度に包まれていた。まさか七月に先月の惨状が復活することになるとは思うまい。年季の入った古臭い畳に染み込まないよう、ナギはタオルを敷いた。ヒダリと女の子はその真横を通っていった。ナギは言葉を失った。
例の女の子は海に居た頃と変わらず、ただじっとしていた。濡れた身体さえどうもしない。それが当たり前であるかのように、黒髪の先から水滴を垂らしている。足元の畳は既に暗いしみを作り出していた。ナギはこの惨状に、自分の濡れた髪を掻きむしった。
ヒダリはそんな女の子にタオルを被せ、両手でわしゃわしゃと拭き始める。その様子は、風呂上がりの子どもを拭く母親のように見えた。ヒダリの柔らかな微笑みがそう見せたのかもしれない。ナギは騙されまい、と目を瞬かせ、デニムパンツを脱いだ。
「しかし、どうしてこの子を誘拐」
「保護だよ」
「はいはい。どうして拾ったの?」
「子どもの頃、何でもないただの小石を宝物だと思い込んだ」
突然の話題転換はヒダリの十八番である。
ナギは黙ってTシャツを脱ぐ。
「はたから見ればただの石さ。何の価値もない。でも、ボクにとっては、それじゃあなければダメだったんだ。心がそのままではいられないような何かをそこに見出した——それが宝物という言葉の意味なんだと、そう思う」
「この子は人ですが」
「子どもは国の宝だよ」
「子どもは宝であり、石ってわけね」
「石は石だよ?」
水を吸って重くなったデニムパンツとTシャツ、下着類も全て浴槽に投げ込む。全裸になっても、まだ磯の香りがする。素肌に深く染み込んでいるようだった。波打ち際で伸びる海藻が脳裏に浮かぶ。私は今、あの海藻と同類になっているのだと、ナギは思う。海という居場所に戻ることができず、ただ地上の風に打ちひしがれる、哀れな海藻だ。
開けた窓から生温い風が入り込んだ。薄く濡れた身体が、軽い身震いを起こす。
「ヒダリ、服。乾かすから」
ナギが脱衣室から覗くと、ヒダリはタオルを被った女の子と見つめ合っていた。くすんだ白いタオルの波の中に浮かぶ、女の子の黒真珠の瞳。それと、ヒダリの真珠のような灰色の瞳。窓から差し込む逆光のなか、計4つの宝石がきらめいていた。
ナギは一瞬、ここは海の中なのだろうか、と錯覚した。
空は海水。
風は水流。
瞳は真珠。
役者は揃っている——なんだってここには、海藻もいる。
気付いた時には、全裸になったヒダリが、脱いだ衣類をナギに差し出していた。ナギよりも小柄な彼女は、ナギの胸元あたりからじっとこちらを見上げている。真白いマシュマロのような肌、真珠のような瞳の灰色。
そのワンピースを受け取ると、ヒダリは口の端をにこり、とつり上げた。
「ありがとう、ナギ」
「はいよ。先にシャワー浴びてきなさい」
やった、とヒダリは浴室に駆け込んでいった。
受け取ったワンピースを広げてみる。服の生地は濡れてもなお、滑らかな心地をしていた。どうせヒダリのことだから、ハイブランドの逸品なのだろう。襟元のタグを見ると、「HERMES」と刺繍がされていた。これで贋作だったら笑いものだが、ヒダリに限ってそんなはずはないだろう。いくらファッションに疎い者でも、本物に触れば本能的に理解する。何も、こういった物体だけに限った話ではない。
その本物を着ていてもあのような活発な行動を取るのだから、彼女に着られる服たちは不憫だ。
ワンピースは袖と臀部が砂で汚れ、淡い褐色に染まっていた。さらに、海水に晒されたことで、明るい灰色と化していた。薄く汚された純白。私が彼女の親だったら卒倒するな、と苦笑する。とにかく、高級品の手入れの方法を知らないので、むやみやたらと触れないようにし、ハンガーをふたつ重ねて掛けた。
シャワーの音を聞きながら居間に戻ると、女の子は頭にかぶったタオルに噛み付いていた。こちらも衣類を大切にしないタイプのようである。ナギが引き離そうとするも、彼女の噛む力はかなり強く、引き剥がした際に音を立てて破れた。
女の子は噛みちぎった断片をもぐもぐと咀嚼をしている。
どうして、こんなことになったのだろう?
「あなたは、何者?」
女の子は答えなかった。女の子はこちらをじっと見つめるだけだった。
初めて目が合う。
女の子の瞳は真黒というよりも、黒に近い濃藍色をしていた。黒に染まりきらない、絶妙な明度だ。ヒダリが先ほど覗き込んでいたのは、この色だったのである。
ナギはしばらく、彼女の二つの眼を見つめ続けた。まるで瞳の奥へと吸い込まれてしまいそうだった。彼女の眼には、いったい何が映っているのだろうか。
「な・に・も・の?」
通り過ぎる自転車のチェーンの音。カラスの鳴き声。隣部屋の扉が閉まる音。スリー・クッションを挟んでも、女の子は何も言わなかった。まるで、言葉を話す機能そのものを持ち合わせていないかのように。
そうしているうちにヒダリが脱衣所から出てきた。華奢だが豊満なその裸体は、スポンジのキャラクターが描かれたバスタオルに包まれていた。
「ねぇねぇ、この子まったく喋らないんだけど」
「だろうねえ」
「だろうね?」
全てを見通しているような物言いに、ナギは首を傾げる。
「知ってたの?」
「うん」
ヒダリは首筋の水滴を手のひらで拭きながら、ふわりと微笑んだ。
「そんな気がしたから」
「なにそれ」
「そういうこと。ねえ、服貸して」
ナギは脱ぎ散らかした服の海から、Tシャツと体操着のパンツをヒダリに投げつけた。「ありがとウサギ」と受け取ったヒダリはその場で着替えを始める。下着すらも付けていないが、ナギはもう何も気に留めなくなった。
服を漁ったついでに、女の子にも適当な服を見繕う。濡れたパーカーは窓外の柵に掛け、ヒダリの下着も脱がして柵に掛け、破れたタオルで全身を拭き直してから、ナギの服を着せた。ヒダリはよく自分の履いていた物を着せたなあ、と思いながら、女の子の全身をナギの衣服で飾った。小学生ほどの背丈の女の子は、すっぽりと服に収まった。木にぶら下がる準備が整ったミノムシのようだった。
ヒダリがミニテーブルの前に座る。彼女は肩にハンドタオルを掛け、その上を濡れたホワイトアッシュがなだらかに走っている。普段ナギが着ている服は、自分の物ではなく、あたかもヒダリの所有物であるように見えた。ファッションは着る者が全てであるらしい。
「気持ちの良い夕焼けだね」
陽が傾き、室内は淡い赤橙に染まりつつある。うっかりこの空間に入り込んでしまった風は、出口を求めてさまよっていた。ナギの身体はこの風によって既に乾いていた。暮れの陽光がジリジリと素肌を刺してくる。まだ服を着ていなかったので、ナギは服の海からサルベージした下着とジャージを着た。ジリジリは弱くなった。
沈黙の間、女の子は髪の毛を唇だけを使ってくわえようとしていた。鳥や魚が餌をついばむようにして。そのあどけないしぐさに、ナギは一瞬だけ頬が緩むのを感じた。しかしすぐに戒める。これは誘拐だ、私は犯罪者なんだ、と。
ヒダリはなぜ、この子を連れて行こうと思ったのだろうか。
そもそも、こんなところに連れてきてよかったのだろうか。
そして、この子はどうして何も言わないのだろうか。
「そういえば、シャワーの時に思いついたんだけど」
「バスルームあるあるね」
タオルでホワイトアッシュを拭くヒダリが、肘で女の子を指し示す。
「この子、『ウミちゃん』って名前で呼ぼうよ」
ナギの立場とは真逆である彼女の言葉に、苦笑さえ浮かばなかった。
「それは、やめといたほうがいいわよ」
「なぜ?」
「名前は、所有権を主張するものだから」
「愛称だよ、あいしょう」
「愛称なんてもっとでしょう」
強情なヒダリを説得することはできない。
これはナギが示す、せめてもの抵抗だ。
「誘拐にしろ、保護にしろ、私たちとは繋がらなかったはずの存在に、私たちだけにわかる名前を付けた時点で、彼女は私たちと関係を持ったことになる」
「それが?」
「別れるとき、つらくなるわよ」
なるほど、とヒダリは納得するように頷いた。
彼女の真意が分からないにせよ、女の子とはずっと一緒にはいられないことは明白だ。
私たちはただの大学生であり、この子はただの女の子であり、この誘拐はただの気まぐれに過ぎないのだから。
「でも、ウミって名前はいいと思うんだ」
「話、聞いてた?」
「番号呼びよりはいいんじゃあないかな」
「……はあ」
やはり、ヒダリの真意はよく分からない。つくづくナギはそう思う。
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