01 難破
「海はあまり好きじゃないの」
七月の浜風が、火照る頬を撫でる。
梅雨が明けて間もないこの頃、気温は一気に上がり、地球はひとりで勝手にバカンス気分に浸っているようだった。喜びが爆発的に湧き起こるその気持ちは分からなくもない。が、その感情はひとり自室でビールを飲むように楽しむものであって、野外で見知らぬ他人を巻き込むほどの価値のあるものなのだろうか?
好きなアーティストのライブチケットが当選したといって、同チケットを外した知人に想いの丈を懇切丁寧に述べたところで、曖昧な返事をされて引かれるだけだ。むしろ嫌われるだろう。
今、ひとりで勝手に熱狂している太陽に、
「暑いね」
柔らかな甘い風のような声だった。
隣の女性、
ナギの背丈より二十センチほど低い、推定150cmほどの彼女は、真白い長袖のワンピースを日光で乱反射させていた。雪のように白い肌やホワイトアッシュのロング・ヘア、ダイヤモンドのような灰色の瞳などもその一翼を担っている。つまり、全身で光を発していた。まるで隣に小柄な太陽が浮かんでいるかのような眩さと鬱陶しさだ。
「そうね」
彼女の何気ないつぶやきは、ナギの発言を受けてのものだった。言葉のすれ違いを起こしているように聞こえるが、細い線で繋がっている。目を凝らしても見えるか怪しいほどの、うっすらとした線だ。
したがって、ナギは中身のない同意を返すしかなかった。
持っていたジンジャー・エールのペットボトル・キャップを回す。ぷし、と小気味の良い音が鳴った。飲み口に唇を当てると、眼球の裏が痺れるような匂いがした。炭酸は抜けきっており、ただの辛い液体になっていた。半分近く残っていたそれをひと思いに飲み干す。喉の奥がヒリヒリとする感覚はやってこないので、物足りなさを感じた。通りかかった自販機のそばのゴミ箱へ、ペットボトルを放り込む。カコン、とかごの淵に当たって跳ねると、音もなく底に落ちた。
手のひらを頭に置くと、ナギの黒髪はじんわりとした熱を帯びていた。そのこもった熱を逃そうと、両手でわしゃわしゃと髪を揉みしだいた。効果は薄く、ショート・ヘアが乱れただけだった。再びナギはため息をこぼした。
「これじゃあ気分転換にならないわ。まだ部屋の方がマシよ」
「いいじゃん。あったかいし」
「さっきと言ってることが微妙に違くない?」
そうだっけ、と首を傾げるヒダリを後目に、ナギはゆっくりと首を回した。
こきり、と耳元で骨が鳴る。
ナギの頭の中では、先ほどから納得のいかない曲のフレーズが延々と繰り返されていた。
作っていた音楽が完成間近で納得がいかなくなり、六畳一間でウンウン唸っているのは不健康だとヒダリに言われてから、散歩に出たのだった。
だが、症状は悪化の一途をたどっていた。何より、うんざりするほど聴いた音だ。嫌なものを見続けさせられているような気持ちになる。スタンリー・キューブリックの映画『時計仕掛けのオレンジ』に出てくるアレックスも、こんな気持ちだったのだろうか。拘束されようが、目薬を差されようが、大好きなベートー・ヴェンの『交響曲第九番ニ短調』が流れていようが、見たくないものは見たくないし、聴きたくないものは聴きたくない。
作っている、納得のいかないメロディ。
遠くから聴こえる蝉の鳴き声。
ベートー・ヴェンの『悲愴』。
踏切の「ファ」とその半音上がった音。
太陽が地面を焼く音。
そして、細波。
実験音楽のように、それらが合奏をしている。
「こういうところにふたりだけだと、なんだかふしぎな気分になるね」
梅雨を終えたばかりの海はおとなしく、ホッと一息をついているようだった。
七月初頭の平日昼時から海水浴に来る人はいないらしく、砂浜にはナギとヒダリのふたりだけだった。
「フシギ、ね」
ヒダリはたびたび不思議、という言葉を使う。
輪郭がなく、捕らえようのない、ぼんやりとした言葉だ。
「人が大勢いるはずの場所に誰もいない光景は新鮮よね」
そうそう、と思い出したようにヒダリがぴょんぴょん跳ねる。
「この前ね、夜に電車に乗ったら誰も乗ってなかったの。ボク、感動しちゃった」
「そう思うのはヒダリだけよ」
「みんなはそう思わないのかな」
ふたりで波打ち際を歩いていく。
海水を吸った砂は暗い褐色をしていた。靴裏越しの砂はむにむにとしていて、本当にこの上を歩いていいのか不安になる。アスファルトとは違う、柔軟さ。包容力。あるいは、優しさ。
歩くなら硬い方が安心する、とナギは思う。
「ああっ、ぬるい」
ヒダリは既に靴を脱いでいた。赤褐色のローファーが指先でぷらぷらと揺れている。流線を描くヒダリの青白い素足は、灰色の水の中を悠然と泳いでいた。紅色のペディキュアが水中生物の眼のように光っている。
ナギもスニーカーと靴下を脱いだ。濡れた砂が足裏をくすぐり、波が素足に絡む。きめ細かな泡の感触は、液状の生き物がうごめいているようだった。
「ぬるいね」
確認するように再度、ヒダリが言う。
「夏が暑すぎるのよ」
「下は洪水、上は大火事。なーんだ」
唐突に出されるなぞなぞに、ナギは三度目のため息をつく。
「インスピレーション」
これだから表現者は、とヒダリはふわりと笑った。
波が砂にしみ入る淡い音がする。
沖の方では小型船が海面に浮かんでいる。この地域の漁業に詳しくないナギは、あの船がどんな意味を込めて出航をしているのか疑問に思った。どんな魚を捕りに行っているのだろうか。どんな手順で獲っているのだろうか。どんな判断が下されているのだろうか。どんな道具を使っているのだろうか。そもそも、どうして魚を捕るのだろうか。
考えているうちに、船は遠くなっていく。
「もう。ナギはすぐに考え込むんだから」
気付けば、船はナギの視界から消えていた。
隣にいたはずのヒダリは波打ち際を離れ、砂浜に腰を下ろして生あくびをしている。純白のワンピースが汚れることも気に留めていない様子だった。
ナギはゆっくりと首を回した。こきり、と耳元で骨が鳴る。
「……そんなに経ってた?」
「5分くらいかな」
「ごめん」
へーき、と言ったヒダリは、手のひらで泥団子を握っていた。おにぎりを作る要領で、握っては回し、握っては回しを繰り返している。ときおり固めるようにグッと腕に力を込めると、5個目の球体が生まれた。
「どう?」
ヒダリが泥団子を差し出してくる。ナギは彼女の隣に腰を下ろした。
「……うん、おいしそうね」
「子どもじゃあないんだからさ。もっと大人の観点で」
彼女はいったい何を求めているのだろうか。
ナギは泥団子を手に持ってみる。
途端に球体は崩壊した。
あっ、と声を上げるヒダリ。
「耐久性がイマイチね。これじゃあ商品になりません」
「破壊の衝動性は、創造そのものだよ、ナギ」
「芸術と商業は相容れないものよ。そして、破壊が許されるのは芸術だけ」
「爆発は?」
「泥団子の形をした爆弾は商業ニーズには合わない」
「今こそロマン主義をリバイバルすべきだ」
手のひらの砂を払いながらヒダリは立ち上がる。軽い貧血を起こしたのか、こめかみを指で揉んでいる。
彼女がずっと待っていてくれたことに、ナギは少しだけ罪悪感を抱いた。その心のわずかな隙間に、細波の音がしみ込んでくる。
定期的な潮の満ち引きは、心臓の鼓動に似ている。その音を聴いているだけで心が穏やかになる。自分の胸に手を当てると落ち着くように、赤子が母親の胸の中でゆったりと眠るように、鼓動というものは、人を安心させる効果がある。
それならば、打楽器のリズムも、人を安心させるためにあるのだろう。音楽で四つ打ちがよく使われるのは、そういうことなのかもしれない。
再びナギの頭に浮かんでくる、納得のいかない曲のフレーズ。
芸術と商業は相容れない——自分の言葉に、首を締められる思いだ。
「あ」
波に溶けてしまうようなヒダリの声。儚いほどに甘く、透き通るようなその一音に、ナギは弾かれるように顔を上げた。
強い日差しが海に降り注いでいる。
閉じかけたまぶたを細く開くと、ヒダリは海に向けて指をさしていた。その記号に従い、ナギの視線は誘導される。浜風が吹き付ける中、何度かまばたきをし終えると、海面に小さな影が浮かんでいるのが見えた。黒い糸が樹木のように水面から伸びていた。あるいは、岩礁に打ち上げられた海藻のようにも見えた。
「え」
思わず立ち上がる。波の隆起で隠れていたものが露わになった。
黒い糸は髪の毛だった。さらに、それを支えるのは樹木でも岩礁でもなく、裸の肉体だった。水着などの衣服をいっさいまとわない、産まれたままの人の姿。それを太陽が白日のもとに晒している。
断じて、ここはリトル・ビーチではない。レディー・ベイ・ビーチでもない。ましてやレック・ビーチでもない。
「女の子だね」
「えっ」
極小の裸体はわずかに流線を描いていた。
小学生、低学年くらいだろうか。ナギにも見覚えのある、か細い輪郭だった。
「ほんとだ、女の子だ……」
海面に生えた女の子は、濡れた髪をかき分けるようなこともせず、波に揺られることもなく、ただじっと佇んでいる。
「ナンパする?」
「難破?」
そう言ってから、ナギは言葉の選択を間違えたと後悔する。
「夏の魔法とやら、合法手段とやら」
さすがに違法だと思う——そう口を開く前に、ヒダリは海に足を踏み入れていた。純白のワンピースが濡れることも構わずに、ためらうことなく。
「おいおいおいおいおいおいおいおいおい!」
振り向きもせず進むヒダリに、ナギは自分の身体を見下ろした。デニムパンツに薄いジップパーカー、ライブTシャツ——これはただ成り行きで行っただけのバンドの物だ——なので、濡れても平気だ。ナギも海に足を踏み入れた。
波が脚をさらおうとしてくる。思うように進めない。海自体がナギを拒んでいるようだった。その間にも、ヒダリはどんどん遠くなっていく。まるで足元が海であることを忘れているような速度だ。彼女が現代のモーセだとすると、ナギはさしずめファラオ率いるエジプト軍か——そんなどうでもいいことを思う。
「ヒダリ、ちょ、ま」
ヒダリのこういう時の爆発力は凄まじい。本人からすればなんということのない行動であろうが、ナギからすれば異常そのものだった。以前も自販機の下で何かが輝いたという理由で、通行人の目も憚らずに覗き込んだりした。またある時は、飲食店で怒鳴る客に「どうして大きな声を上げる必要があるんですか?」と尋ねたりもした。いったん興味を持ってしまうと、ゴールに向けて一直線に走りだすのだ。
倫理観さえも度外視したその行動力には目を見張るものがあるものの、ナギは『悪癖』だと思っている。悪い癖は治ることなく、今もこうして爆発している。
ヒダリは波に揺られることのない芯を持っていた。本当に、前世はモーセその人だったのかもしれない。
やがて、ヒダリが女の子にたどり着いた。女の子はヒダリを見つめているようだった。不審者と決めつけるようなことをせず、怯えることもせず、ただじっと佇んでいた。ようやくナギがたどり着いた頃でも、女の子は声を発したり逃げたりするそぶりを見せなかった。
「ひ、ヒダリ。ぜひとも報連相をね……」
「ナギ」
海のうねりをものともしない、透き通るヒダリの声。
「服、この子に貸してあげて」
「……はいよ」
言われるままに、ナギは脱いだパーカーを女の子の背中にあてがった。女の子からは強い磯の香りがした。生臭さ、とでもいうのだろう。女の子は長時間、海に浸かっていたようだった。腰まで伸びた細くて黒い髪は潮で縮れている。体温が低い——水温と同じか、それ以下のようだった。この女の子の状態を、ヒダリは触れずとも見抜いているのだろうとナギは推察する。
パーカーのフロントジップを閉めると、女の子の裸体は首から膝まですっぽりと隠れた。珍しく高身長が功を奏した、とナギは思う。
服を着せている間も、女の子は身動き一つしなかった。果たして本当に生きているのかと疑問に思えたが、呼吸はしているし、まばたきもしている。閉じられた赤紫色の唇は何かをはむように、むにむにと動いている。女の子の真黒い瞳は、太陽の光をそこに閉じ込めていた。海が産んだ黒真珠のようだった。
「それで……どうするの、この子」
ヒダリは自分のワンピースの中に指を入れていた。数秒後にはその指には白い下着が絡んでいた。まさか、とナギは思った。そのまさかだった。ヒダリは脱いだ自分の下着を、女の子のパーカーの下に手を入れて履かせた。肌を隠すという意味ではパーカーだけで十分だ。そこまでする必要は全くない。
だが、ヒダリがそうしたのだから、それでいいのだろう。
彼女が『悪癖』によって行動を起こした場合に、こちらが何かを差し込む必要はあまりないのだ。
ナギの問いに、ヒダリは屈んだままこちらを見上げた。その顔には、いつものふわりとした微笑みが浮かんでいる。彼女からあふれる柔らかな雰囲気に、ナギは悪い予感めいたものを肌で感じ取った。
「どうって、そうするしかないよね」
「……はいよ」
あの時——ナンパの件だ——ナギが言葉の選択を間違えた時点で、この運命は決まってしまったのだろう。シミュレーション・ゲームと同じだ。選択肢を一個間違えただけで物語は一変する。装備に問題ないと言えば死ぬ定めだし、ドアノブが照れていると思えば爆発するし、ダブルヒロインの片方をないがしろにすれば刺殺されるし、世界の半分をやろうという条件を呑めば初期化され、精神を病むことになる。
つまり、選択肢とは恐ろしい因果律なのだ。現実は非情である。
たどり着いたこの運命に、ナギは苦笑することしかできない。
「この埋め合わせはちゃんとしてもらうわよ」
ナギが女の子を背負うと、大きな波が押し寄せた。
アッ、と声を上げる前に呑み込まれる。
流されることはなかったが、全身は潮水にひたされてしまった。口の中に入り込んだ海水をぺっぺと吐き出し、舌打ちをしたい気持ちをぐっと押し殺した。
「わかったよ、ナギ」
同じように全身を濡らしたヒダリは、隣でふわりと笑っていた。
§
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