03 捕食
太陽は深い眠りに就き、深夜の紺碧が広がっている。
ヒダリは既に帰宅しており(こういう時には決まってナギに面倒ごとを押し付けてくる)、部屋にはナギと女の子のふたりだけだった。女の子はミニテーブルの前で呆けたように座っている。あいかわらず、動きはない。窓際の縁にもたれかかるナギは、その姿を眺めたまま、煙草に火を着けた。深く息を吸い、肺の底まで煙を循環させてから、ため息をこぼした。
そして、先ほどの一連の出来事——食事と風呂について——を思い出す。
まず、食事。
彼女は食器の使い方をまるで分かっていなかった。どれが食べるべき物なのかと見極めがつかず、食器に噛み付くといった奇行を繰り返した。箸とコップと取り皿、全てがかじられた。仕方なくナギが食べさせるのだが、自分から食べようとしない。スプーンの先を噛み砕こうとすれば、口に入れた物をぷへぇ、と吹き出してしまう。そして行為そのものが面白かったのか、ナギが入れさせては吹き出すといった悪癖が身についてしまった。まるで赤子のような食事に、ナギは何度も舌打ちをこらえた。
次に、風呂。
こちらは動かないことが功を奏した。彼女はただ洗われるだけだった。潮で縮れた細い黒髪にシャンプーを、弾力のある素肌にボディソープを、つま先の合間から耳の奥まで、全身をくまなく洗った。彼女の肌は柔らかい子ども特有のものだった。私にもこんな時期があったのだろうか、とナギは思う。シャワーで泡を流すと、くすぐったいのか、身体をわずかにくねらせていた。肌深くに染み付いているのか、磯の香りは取れなかった。
風呂では何もかもが上手くいっていた。ただひとつ、躊躇のない排泄を除いては。ナギは再び、舌打ちをこらえることになった。
「…………ふぁう……」
煙草の火は半分に迫っている。
不思議な子だと、改めて思う。ヒダリが放った「そんな気がした」という言葉から、何か特別な意味を持った子どもなのだろうと推測できるが、ナギには『普通とは多少違っているだけの普通の子ども』にしか見えない。人を視る目がないのだろう。ヒダリに会うまでは他人に対する興味を持たなかったのだから、仕方のない話ではある。
吐いた煙は薄い霧のように広がり、微風に流されていく。海辺へと漂う途中で、街中の風景に溶けるように消えた。もう一度同じように煙を吐くと、同じように海へ向かい、途中で消えた。
どこからか、電車の淡い走行音が聴こえてくる。「がたん、ごとん」と一定のリズムを刻んでいる。これも人を心地よくさせる音のひとつだ。心臓の音、母親の手、海の細波と同じ種類の。
感傷的な気分が、煙草を挟む指先から流れ込んでくる。夜の夏が放つ魔力。
「……曲、どうしよっかなぁ」
煙草を空いたビール缶の縁に押し当て、雫の形をした穴に押し込んだ。残り火があったのか、じゅっ、と底から軽快な音がした。
歯磨きを簡単に済ませ、寝ることにした。マットレスを敷き、そこへ不動の女の子を放り投げる。彼女は横を向いた状態のまま動かなかった。呼吸をするだけの人形のようだった。
「…………」
何か一声かけようと思ったが、ナギは黙って女の子の横に寝転がり、薄い毛布を横にして掛けた。
心地のよい夜が、網戸から流れ込んでくる。
昼時に海へ出かけたことで、身体は良い具合に疲れていた。
さらに、この女の子という謎のおかげで、頭も良い具合に疲れていた。
心身ともに良い具合に疲れている、理想的な状態だ。
女の子はもう眠っているだろうか。
その確認を取る前に、意識が飛ぶ。
§ § §
光の届かない海の底に、紺碧の鈍い燐光が揺らめく。
太陽を見限った深淵の世界には、闇を住処とする生き物が沈んでいる。
それらに焦点が当たることはなく、視界は一匹の巨大な魚を見据えていた。
ゆらゆら揺れる尾ヒレは、水の流れを目に見えるようにしている。
この魚は、確か、昔に、図鑑で見たことがある。
多分、そうだ。
こいつは、シーラカンスだ。
(どうして、ここに?)
この魚のことは図鑑の知識でしか知らない。
どんな泳ぎ方をして、どんな物を食べ、どんなふうに寝るのか、身体の仕組み、交尾の仕方、そして、生きた化石と称される理由など、何もかもを知らない。
それでも、普段人が口にし、観賞するような魚たちとは一線を画するその存在感に、ただ圧倒されるばかりだ。
まるでアンダーグラウンド界の王者のようだった。
日の当たらない、地上から覗くことも叶わない、裏の世界。その頂点。
(彼は、何を考えているんだろう?)
地下世界の王者であるそんな彼は、サイケデリック・アートやロックン・ロール、マリファナやLSDなどを、さほど必要としていないようだった。
ただ、静かなる海を遊泳しているだけだった。
海の底ではカウンター・カルチャーは生まれないらしい。
ここでの毎日はウッドストック・フェスティバルではなく、オルタモントの悲劇なのだろう。
(彼は、何を求めているのだろう?)
シーラカンスが寄ってくる。
遠近感に騙されていたが、彼は人間の十倍以上もの巨体であった。
人間など丸呑みできるほどだ。
私の身体は水中で釘付けになったように動かない。
呼吸さえも満足にできないでいる。
真綿で首を絞められるとはこのことか。
小さな空気の泡が私の頬をすり抜けてゆく。
私ではない、別の人の呼吸に思えた。
海底に音はなかった。
私とシーラカンス以外のあらゆる生命は死んでいるように。
(ああ)
シーラカンスは大きな口を開いた。
像の爪のような歯が鈍く光る。
喉奥の色、そこに住む寄生虫の顔色、食べられたイカのヒレなどが見える。
それほどに大きな、大きな口だ。
(私はいったい、どんな味がするんだろう?)
そう思っているうちに、私は頭から食べられた。
ぽくり、と首のあたりから軽快な音がした。
それは、スティック状のスナック菓子を歯で折る音に似ていた。
§ § § §
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