第16話
貴時は暇を持て余していた。
お菊が早速入れた、習い事の予定は週3日。
仁平の会合の護衛も精々週2日で、今日明日は何も無いので、ゆっくりしていろと言われてしまった。
風間も何処かへ行ってしまった様で、近くに居ない。
1人で暫く、やっと口にした酒を飲みながら庭を見ていたが、いい加減飽きて来た。
ー忙しいから、偶にゆっくり庭見てんのが愉しかったんだな…。
などと、忙しくも無い時見ていても、つまらない物だと気付いてしまう始末。
ー奥祐筆らしい事でもするかあ…。
貴時は帳面を出して墨を擦り、甲州の顛末を書き記し始めた。
こういう仕事は、弟源十郎の様な、城から出ない者達の仕事だ。
現場に出て、帰って来た者達から話を聞き、詳らかに記録し、とある場所に隠す。
しかし、源十郎の仕事を奪ってもどうかと思い直し、結局日記の体裁を取り始めた。
その頃、越後屋の店先に、普段着だが、質の良い着物を着た女性が現れていた。
「いらっしゃいませ。本日はどの様なお品物をお探しでございましょうか。」
番頭が愛想良く出て来た場所に腰掛けた、芸者風の女性は、扇子片手に、ニッコリと艶やかに微笑んだ。
「ちょいと、品の良い小紋で小袖をね…。」
そう言いながら、番頭に、そ知らぬ顔で紙を渡す。
その紙を見た番頭は、紙を人知れず袖に隠し入れ、顔色も変えず、愛想良く返した。
「少々お待ち下さいませ。ご用意致します。」
番頭は奥へ走り、越後屋仁平様と書かれた小さな手紙を、仁平に渡した。
ー伊達の旦那に御目通りを。本所深川 鈴乃屋 綺蝶ー
「普段着でもお座敷に出られそうな、艶やかさでございましたよ。」
番頭は興奮した様子で、小鼻を膨らませて、仁平に告げた。
「そりゃあそうだろうさ。鈴乃屋の綺蝶さんと言えば、深川で知らぬ者は居ない程の、芸と美貌とキップの良さ。
それに、あの伊達様の想い人なのだからな。
直ぐにお通ししなさい。」
仁平は楓にも丁寧に挨拶し、早速、離れへと案内した。
「桐生様より伺ってございます。貴女様がお座敷で、それとなくお調べになり、玄庵先生から当家に行き着いたと。」
「あらまあ。流石は桐生様。バレちまってたんですか。」
「はい。その後の事も、しっかりと承っております。」
「ーその後とは…。」
仁平は楓の耳に小声で告げたが、楓は驚いた顔になった後、苦笑した。
「前は仰ってくださってましたけどねえ…。今だとどうなんでしょうね…。」
「なんで来んだよ。馬鹿なのか。」
楓の顔を見るなり、開口一番、これである。
「また馬鹿とはなんです!。」
「帰んな。」
「嫌です〜。鈴乃屋も辞めてきちまったんですよ。責任取って下さいましな。」
今日は珍しく、喧嘩の相手も大してせずに、楓は文机に向かったままの貴時の前に回り込み、文机に頬杖をついて、ただ貴時を見つめた。
「責任って…。」
「お役目に行く直前まで、嫁に来いって仰ってたじゃありませんか。それともあれは嘘ですか。」
「俺はお前に嘘なんかつかねえよ!。」
「じゃあ、良いじゃありませんか。ほんの一月、お返事がずれ込んだだけですよ。
まさか、そんなもんで反故になさるおつもり?。」
貴時は頭を掻き毟って、畳に腹這いに寝転がってしまった。
「今はマズいんだよ…。」
楓はフッと笑って、貴時の隣に一緒に寝そべった。
「だからですよ。」
「……。」
「大変な時だから、お側に居たいんですよ。
それくらい、許して下さったって良いじゃありませんか。
いつも人を助けてばかりなんですから、偶にはお返しさせて下さいな。」
「……。」
「どうせ退屈なさってたんでしょう?。」
「ーまあな…。」
「あたしがここに押し掛けて来るって、桐生様はもうお分かりになっていらして、更に手を回されてるようですよ。」
貴時は驚いた顔で、上半身を起こし、楓を見た。
「はあ!?。手え回してるったあ、なんだ!?。」
「だから。取り敢えず、貰ってくださるんですか。どうなんです。」
桐生まで知っていて、尚且つ、楓の後押しをする様な手を回しているとなったら、貴時に逃げ場は無い。
楓共々、守ってくれるつもりなのだろう。
貴時は諦めた顔で、楓を半ば睨みながら言った。
「ー危ねえとなったら、絶対逃げろ…。」
「はいはい。」
「薙刀の免許皆伝は忘れろ。」
「はいはい。」
「1人で出歩くな。必ず俺と歩け。」
「はいはい。」
「ーなら良い…。鈴乃屋辞めちまったんなら、しょうがねえから貰ってやる。」
楓は面白そうにクスリと笑った。
暫く貴時の側に居た楓だったが、不意に居なくなり、戻って来ないと思ったら、今度は貴時が母屋に連れて行かれ、有無を言わさず、黒紋付に着替えさせられた。
しっかり伊達家の家紋の九曜も入っている。
「仁平さん…、あのお…。これは一体…。」
「お代は桐生様から頂いております。」
「いや、そうじゃなくてさあ…。」
「桐生様のお指図でございますから。」
和か(にこやか)に仁平は言ったが、貴時は苦虫を噛み潰した様な顔になってしまっている。
ー桐生様、何考えていらっしゃるんだよ…。祝言なんか挙げてる場合か…。
楓と一緒になる事は、貴時自身が望んでいた。
しかし、今は時期が悪過ぎる。
吉井が、貴時を恨んでいるのなら、更に苦しめようと、楓にターゲットを絞る事も、十分考えられる。
ひっそりと一緒になるならまだしも、祝言なんか挙げて、大々的に発表してしまったら、余計に吉井の目に着くのではないのか。
「伊達様。」
そんな思いを感じ取ったのか、仁平が静かに声を掛けた。
「桐生様は、伊達様に少しの間だけでも、普通の、平穏な日を送って欲しいと、願っておいでなのでございます。」
桐生は、貴時をずっと見て来てくれていた。
育ての父は主に祖父であったが、お役目で不在の事が多かった。
それに代わって、父代わりをしてくれていたのは、桐生だった。
15歳の満月の夜、無我夢中で家を飛び出した時も、何も聞かず、桐生家に住まわせてくれた。
貴時が楓に一目惚れして、そのまま鈴乃屋に居ついてしまっても、笑って許してくれた。
15になるまでの間も、安心出来る幸せな家庭とは、程遠い生活を送って来た。
それ以降も、ずっとこのお役目で、神経をすり減らして来ている。
それを桐生は、ずっと気にしてくれていたのだろう。
実の父の様に。
だからこの機会に、ほんの少しの間でも、平穏な人並みの幸せを味わせたいと思ってくれているのだ。
幸せな事だと思う。
貴時は自然と、柔らかい笑みを溢していた。
「じゃあ、親孝行って訳だ。」
「その通りでございますよ。」
広間に連れて行かれる前に、1人になった。
庭を覗くと、風と共に、風間が現れる。
「おめでとうございます。」
「お前も出ろよ。」
「はい。そうさせて頂きますが、その前にご報告が。」
「どうした。」
「箱根の関所付近で、怪しげな幻術を使う侍が3名、配下の者に寄り、斬られました。
幻術は持っていた妖刀に寄る物と思われ、妖刀はその場で粉々に処分したとの由。」
つまり、吉井が持っている12本の内、もう3本も減ったという事だ。
しかし、貴時の脳裏に、あの時の、妖刀を手にした吉井の太刀筋が蘇る。
貴時でも読めない、あの妙な太刀筋が3人も居たら、いくら貴時でも無傷では済まない気がした。
「ー味方の被害は?。」
「ーほぼ相討ち…。6人がかりでやっとだった様でございます。」
貴時は辛そうな顔で目を伏せた。
察した様に風間は付け加える。
「ただ、朗報も。」
「あんのか。」
「はい。その際、吉井を含めた妖刀を持った他9名と、その他8名の足取りは掴んでおり、妖刀持ちでない8名に関しては、既に斬り捨てたとの報告が。
吉井以下、妖刀持ち9名は、只今、1人づつ遠方から仕留めに掛かって居ります。」
「ーどこだ。」
「なりません。」
「言え!。小太郎!。俺のお役目だろう!。」
貴時は、余程の時でない限り、風間の本名は呼ばない。
忍に歴とした名は無いとされているからだ。
風間家の者は、全員風間であり、また風間ではない。
死した時、名は残さない。
それが忍の掟なのだ。
「遠方から仕留めるのが、味方も無事に済み、確実なのです!。今、貴方様が向かわれては、この策が水泡と化してしまいます!。」
貴時は不機嫌な無表情で、風間を見つめていた。
「お気持ちは、この小太郎にはよく分かっております…。
貴方様を付け狙っている者達が、味方を殺めたとなっては、貴方様は黙って居られる方では無い…。
しかし、貴方様は何もなさって居られぬのに、逆恨みされただけ。
貴時様のせいでは決してございませぬ。
吉井は、上様が野放しにした様な物。
桐生様もそう申され、奥祐筆の問題として扱われております。
そこをどうか、お忘れ下さいますな。」
その桐生が、スッと襖を開けて、座敷に入って来た。
「その通りじゃ。貴時。これは、そち1人の問題では無い。足取りは掴んでおるのだから、座して待て。」
「ーしかし、そんな折に祝言などと…。」
「貴時。其方は強い。」
「ーは…。」
「ワシの25の時よりも強い。だがな、貴時。」
「はい…。」
「男子たる者、守る物があってこそ、初めて真の強さを得られるものじゃ。大切な者を手に入れよ。
そして守れ。
さすれば、お主は、真の強さを手に入れるであろう。」
その時の貴時には、余りピンと来なかったが、ただ、桐生の言わんとしている事は分かる気がした。
自分は地に足が着いていない、そんな自覚は貴時にもあったからだ。
「委細承知致しました。けど、桐生様。」
「なんじゃ。」
「まさか、わざわざお越しになるとは思いませんでしたが…。」
「来て悪いのか!?。ワシは其方の親父のつもりだが!?。」
貴時は苦笑しながら、照れ臭そうに、『そうですね』とだけ言い、それを見た桐生は幸せそうに笑った。
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