第9話
貴時は、内心焦っていた。
奥方が拐われたのは、自分のお役目のせいだ。
もしも、もうあの薬を盛られていたら、柳井に会わす顔が無い。
必然的に、貴時は家老の家に全速力で走って行った。
そして、門前に到着するなり、門番を片手で投げ捨てる様にして追い払うと、無言で玄関まで大股で歩いて行った。
「小林!。柳井さんの奥方返して貰うぜ!。」
家老が喜色満面で出て来た。
「これはこれは…。御本人御自らお出ましとはのう…。」
「奥方、返しな。」
「それは…、お主の死体を見届けてからじゃ!。」
それが掛け声だったのか、居並ぶ家臣達が一斉に刀を抜いた。
ところが、貴時は余裕綽々としている。
肩を回し、首を回し、手首をブラブラさせて、まるでウォーミングアップの様である。
これくらいの修羅場は、正直、慣れているのだ。
ーここに20。中に40。地下にも40くらいは居んのかね…。
ただ、少々多い。
1人で相手にした事があるのは、多くて50。しかも、まとめて一気にでは無い。
ーまあ…。しょうがねえな…。
取り敢えず、奥方見つけるのが最優先だな…。
こうしていても、貴時には全く隙が無い。
実際、小者がいきなり雄叫びを上げて斬り掛かって来たが、目にも止まらぬ速さで孫六兼定を抜いて、振り返りざま、一刀で寸分違わず首筋の太い血管を斬り、殺してしまった。
貴時は怒りを隠しもせず、射抜きそうな鋭い目で全員を見渡し、鬼神じみた気迫で怒鳴った。
「次、誰だあ!。」
家老はそれだけで恐れ慄き、奥へ逃げ込んで行くので、貴時は鬼神のまま追い、それを自棄になった様な家臣達が、なり振り構わず襲い掛かって来るのを、また一刀で斬り捨てて行く。
「小林!。奥方出せえ!。」
必死に逃げて行く家老の背中に向かって、家臣達を斬り捨てながら言うが、家老は正気を失ったかの様に止まらない。
首筋、脇、大腿動脈のある辺り。
ここが急所だというのは、大きな血管が通っているからだという知識の無い、侍の時代でも、刀を振るう強者は分かっていた。
だから、鎧兜というのは、その部分を守っているし、『脇が甘い』という言葉は、ここからも来ていると思われる。
使い手に隙が無いというのは、そういう事だ。
それらの部分を絶対に敵から守り、決してそこを突かせない。
しかし、小林の家臣達は、貴時から見たら、隙だらけもいい所だ。
江戸の安寧の世は、刀をただのアクセサリーにし、侍をただのサラリーマンにして、剣術から遠ざけ、武士の魂をも捨て去った者達で溢れかえっていたのだった。
貴時がいくら並々ならぬ使い手といえども、呼吸をする様に、一刀で急所を狙って、斬り捨てて行けるのは、その為だ。
とはいえ、疲れる。
3人も斬ったら、刀の血は拭わないと次から斬れなくなるし、もう50人は斬っている。
「先生方!。お願いし申す!。」
家老がそう叫びながら開け放った部屋に、奥方が猿轡をされて座らされていた。
しかし、その前には、格好だけは一丁前の剣豪風の輩が5人も居る。
その5人を前に出し、小林は奥方を前に抱えて、震えながら部屋の隅で小さくなっている。
貴時はその間も、後ろから襲い掛かって来る家臣を振り向きもせず、また、表情も変えず、一刀で斬り捨てていた。
「ああ、めんどくせ。あんたら金で雇われてんだろ。命が惜しくは無えのかい。」
3人は、貴時の太刀筋を見て、恐れを成したのか、逃げに入り始めたが、残った2人の内の1人が、貴時の前に立った。
彼は5人の中ではまあまあだが、一刀でとまでは行かなくても、貴時からしたら、明らかに格下の剣士だった。
隙はそこそこ無い方だが、纏っている気が違う。
恐らく、人を斬った事も殆ど無いだろう。
あったとしても、罪人の死体で試し斬り程度な筈だ。
貴時には、それくらい、男の目を見れば分かる。
「武士の名にかけて、約束事は違えん。」
「武士ねえ。弱い者虐めして、金儲けする奴の片棒担ぐのが武士かい。
武士ってえのは、弱きを助け、強きを挫くもんだろうがよ。」
用心棒は、ほんの少しの迷いを見せつつも、貴時を真っ直ぐに見ていた。
「仔細は知らぬ。」
「ほんとかい?。
この小林って野郎は、人を意のままに操って、狂わし、挙句、酷え死に方させる薬を、ここの地下で作って、長崎の商人に売り捌いて、私服を肥やしてんだよ。
俺がそれを嗅ぎつけて、御公儀に知らせようとしてるからって、そこの奥方を人質に取って、俺の命取ろうってえんだ。
それでもあんた、俺に斬られてでも、コイツ守るってえのか。」
貴時が、既に桐生に使いを出していると言わないのは何故か。
この場が収まってくれるか、自棄になって更に事態が悪化するか、それが予測出来ないのが1つ。
もう一つは、いくら風間でも、まだ江戸には着いていない。
万が一、追い付かれ、風間が桐生に報告出来なかったら、公儀のテコ入れは遅くなり、証拠の隠滅を図られる恐れがある。
元より、代々伊達家に仕えていてくれる風間を死なすのは、何よりも嫌だった。
更なる懸念事項は、高杉達だ。
彼らは、馬に乗れない。
いくら忍を付けていても、ここから江戸まで5日はかかってしまうだろう。
その間に、ある程度の証拠を握っているかもしれないという疑いを小林が掛け、追手を放ったら、2人も忍達も命は無い。
寄って、貴時はこの場は1人で凌ぐしか無いと判断していた。
「そなた、何者だ。」
「伊達貴時、ただの物書きだよ。あんたは。」
奥祐筆は表向き、記録係だ。
だから、貴時は皮肉を込めて、そう名乗る事にしている。
「某は、当家の剣術指南役、村田宗兵衛と申す。」
「ここんちの?。じゃあ、あんた、知ってんだろ。この地下で何をしてるか。」
村田と名乗った剣士は黙って俯いた。
ー知ってるが…。迷ってんな…。こいつも人質でも取られてんのか…。
「村田さん。あんたの人質は誰で、どこに居る。」
村田は、ハッとした顔で、貴時を見上げた。
「何故それを…。」
「まともそうな人なのに、こんな奴の言うなりだからだよ。」
「ー地下に…。」
「先生!?。」
小林が慌てふためき始めたが、それを遮る様に、村田は目を閉じて、絞り出す様に言った。
「地下に娘が囚われておる!。」
「んじゃ、コイツ始末して助けに行こう。」
「こやつの奥方もなのじゃ…。」
村田は、自分が情けないのか、蚊の鳴く様な声で、隣の逃げ出していない剣士を顎でしゃくって付け足した。
「あんた、どうする。」
貴時が聞くと、その若い剣士は、貴時の隣に立ち、小林に向かって刀を構えた。
小林は震えながら、柳井の奥方に刀を構え、小者の台詞を吐く。
「こ…この裏切り者めらがあ!。近寄るな!。この奥方がどうなっても良いのかあ!。」
貴時は、酷く嫌そうな顔で小林を一瞥するなり、突然奥方に言った。
「お高さん、動くなよ?。」
小林がなんの事だか分からぬ内に、貴時の孫六兼定の切っ先が煌き、小林の首がゴロンと嫌な音を立てて転がった。
「ごめんな、お高さん…。血塗れだ…。」
血飛沫が、高の顔や着物に飛び散ってしまっている。
貴時は申し訳なさそうにそう言いながら、高の猿轡と縄を解いた。
「伊達様、有難うございます。」
「いいや。こっちこそごめん。巻き込んじまった…。妙な薬は飲まされてねえかい?。」
「はい。お陰様で…。あ、これを…。」
高は懐から、小さく折り畳んだ手紙を出して、貴時に渡した。
「昼間、江戸弁の研ぎ屋さんがいらして、片桐様から頂いた盃の箱の底に隠してあったのを見つけたと…。伊達様にお渡し下さいと仰っていました。」
「まさか…。これを俺に届けようとして、捕まっちまったのか!?。」
「ーお恥ずかしい限りでございます…。」
「いやいやいや…!。ほんとごめんな…。えれえ迷惑掛けちまった。」
そうしている間に、襲い掛かって来ていた家臣達は消えていた。
「あいつらどこ行った…。地下に逃げ込んだのか?。村田さん、地下ってどうなってんだい。出入り口は?。」
残党の行方が分からない限り、高を1人で柳井家に帰すのも危険だ。
「1つしかござらん。」
「天井低い?。」
「そうだな…。伊達殿の身の丈では、頭ギリギリかも知れぬ。」
「んじゃ、村田さん、案内して。その後ろ俺、次お高さん。最後お前さんな。」
若い剣士にそう言うと、村田と揃って答える。
「承知した。」
どうも2人は子弟関係の様だ。
貴時は刀の血を拭い、鞘に納めると、脇差に変えて、村田の後ろを歩き始めた。
邸内は不気味な程静かで、何の抵抗も無く、地下に着いてしまった。
人質や娘達も無事に救出出来たし、貴時は、長崎商人との取り引きの帳簿や、薬の現物など、更なる証拠を集められたが、どうにも引っかかる。
「ー馬鹿息子が3人居るんじゃなかったのかい。どこ行った…。」
村田は申し訳無さそうな目で貴時を見つめた。
礼を言い、娘にも言わせると、そのまま頭を下げている。
「村田さん、どした。」
「ー小林殿の息子3人は、とんでもない悪童だが、剣の腕は確かなのだ…。
最早、我ら2人を圧倒する程の腕前…。
そして、その配下50人の者達もまた、とんでもない腕前なのじゃ…。
其奴らの顔が、我らが貴方側になってから見えぬ…。」
「逃げた?。」
「逃げただけでは無いと思う…。あの性根からするに、貴方を討つつもりでは無いかと…。」
「ほお。俺を追って来る?。」
「左様…。この御恩、返させて頂きたい。どうか我らも江戸まで同行を…!。」
「いや、ならねえ。」
貴時は、人懐っこいあの笑顔で、村田の肩を叩いた。
「あんたはこの人達、この藩のなんの罪も無え人達を守ってくれ。それが俺への恩返し。
特にお高さん。
相当世話んなったから、無事に柳井さんに届けてくれよ?。」
「ーしかし…!。」
申し訳なさで一杯なのか、村田は泣きそうな顔で貴時に縋った。
「あの悪童達は我が弟子!。弟子の不始末は…!。」
「いいからいいから。俺が付けとく。
あんたは、この先の事考えてくんな。この藩は多分、お取り潰しだ。
混ぜっ返した様な騒ぎになる。
そん時に、あんたがみんなに仔細を話して、落ち着かせてくれ。」
「しかし、伊達殿…!。」
今度は若い剣士が貴時に必死の形相で言う。
「吉井殿の家臣も、揃いも揃って、相当な手練れでございます!。
貴方様は吉井殿の正体も暴かれたのでしょう!?。
御城下では、その噂も広まり、それで小林はそちらのお高様を…!。
吉井殿のお屋敷も、奥方以外、どなたも居らず、恐らくは貴方様を狙って…!。」
「大丈夫だよ。それとも俺が負けそうってえの?。」
貴時が余りにも落ち着いた声で、そう言うので、2人の剣士は、鳩が豆鉄砲を食らったかの様な、呆けた顔になってしまいながら、首を横に振った。
「いや…。貴方様は見た事が無い程の剣豪だ…。」
「ならいいじゃねえか。気にしない。これもお役目。ところで吉井の配下って何人?。」
「50は居ると思う…。」
「分かった。じゃあな。お高さんを頼んだぜ。」
そして貴時は、また酒を買って来るという様な調子で後ろ手に手を振り、行ってしまった。
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