6.消えない記憶はありますか
辺鄙な場所に建っている紅茶専門店に向かう男性が一人。
足取りは重く、泣きはらしたような赤い目で悲しみに歪んだ顔をしている。
店の前まで来ると一度立ち止まり、表に出してあった看板を見る。
そこには『本日のオススメティー<ウバ>』と書いてあった。店名は書いていない。
男性にはそのオススメが何のことか分からなかったが特に気に止めることもなく、山に囲まれたこの場所には似つかわしくないおしゃれな扉に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けると女性の声が聞こえる。
紅茶の香りが部屋中に漂っていた。それはそうだろう。棚という棚に様々な茶葉が置いてある。
こういった場所に来たことがない男性は少しだけ居心地が悪い気がした。
しかしすぐに目的を思い出し、女性に向かって声をかける。
「すみません。ここで記憶を消してもらえると聞いたのですが…」
「はい」
女性は否定も肯定もせずにただ返事をして、店の奥へと案内する。男性は誘われるまま女性についていく。
短い廊下の突き当たりにある扉を女性がノックすると、中から「いいよ」と若い男の声が聞こえた。
その部屋へ入ると、そこには座り心地の良さそうなソファとガラステーブルが置いてある応接室だった。
そしてそのソファにはすでに先客が一人。
思わず瞬きを忘れるほど、人形のように整った顔をした少年が座っていた。
「どうぞ」
先ほど外で聞こえた声の持ち主だ。
彼しか人はいない。少年なのだが…彼が店主なのだろうか?
少年に促されて反対側のソファに座る。柔らかいのに適度に弾力があって、見た目通りとても座り心地が良い。
そこに先ほどの女性が二人分のティーカップを持ってやって来た。
やはり彼女はただの店員のようだ。
そして男性の予想通り、少年が口を開く。
「僕が店主のフィン。…貴方は何が消したいの?」
「私は…」
男性が口を開こうとしたちょうどその時に、目の前にティーカップが置かれる。男性は軽く会釈をして礼をする。
フィンと言った店主の前に紅茶が出されるまでの少しの間、男性は口をつぐんだ。
「モネありがとう。温かいうちにどうぞ」
フィンはモネと呼んだ女性の店員に礼を言い、客の男性に紅茶をすすめる。
男性は張り詰めすぎた緊張を少しだけゆるめて紅茶に手を伸ばす。すでにフィンは紅茶を飲み始めている。
その紅茶は濃いめの色をしており、やや渋く感じる。紅茶をあまり飲まない男性には少し飲みにくいと感じた。しかし、独特のこの味のおかげでほんの少しだけ冷静になれた気がした。
半分ほど紅茶を飲んでから、改めてフィンに向き直して話をする。
「私は…愛する人との記憶を消して欲しいのです」
「ふぅん」
「彼女は先日、私を残して逝ってしまった。こんなに愛した彼女を忘れることは出来ない。けれども彼女は『死んだら私のことは忘れて欲しい』と言った。それが最後の彼女の願い…。彼女の願いを叶えてやりたい。だから…彼女との記憶を消して欲しい」
男性自身かなり葛藤があったのだろう。時折唇を強く噛み締めながら、フィンに依頼を話す。
「最後の願い、ね…」
どことなく寂しげな表情のフィン。
しかしそんな変化に客の男性は気付くことはない。依頼を話ながら彼女のことを思い出したのか、目に涙が浮かぶ。
「分かった。ただこれだけは言っておくよ。一度消した記憶は戻らない」
「彼女の望みだから…」
「そう。では、僕の目を見てくれる」
そうして彼女の記憶は消えた。
◇◇◇
紅茶が好きなわけではなかったはずなのに、気付けば何故か紅茶専門店の喫茶にいた。
女性の店員が注文を聞きにきたので、珈琲はあるか?と聞いたら、ないと言われた。
仕方なく本日のおすすめと書いてあった紅茶を頼んだ。
色が濃く少し渋かった。だけど、それが妙に丁度良かった。
紅茶を飲み終わり店の外へ出る。そして街とは反対の道へ向かう。
三日後から赴任するのはこの国から離れた国。
新たな国に不安と期待が混じっていた。
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