4.過去の依頼
「私は貴方についていきます!」
貴族の者にはあるまじき程、顔をぐしゃぐしゃにして彼にすがる私。
「駄目だ。君は君に似合いの人を見つけてくれ」
「そんな…」
「さようなら」
「待って!待って…」
これほど自分の身分を呪ったことはなかった。
彼との日々はあっけなく終わりを告げた。
私は伯爵位の身分を持つ家に生まれた。
昔ほど貴族の身分を重要視することはなくなったが、それでもまだ身分制度は根深いものがある。
そんな身分が私はとても嫌だった。嫌っていた。
人は皆同じ一人の人であるという考えでいた。圧倒的に少数の考え方であった。
そういった新しい考えの者が集まる小さな集会で私は彼に出会った。
彼は一人の人の命の重さは同じだという考えでおり、素晴らしい考えだと私は思っていた。いや、今でもその考え自体は正しいと思っている。
ただ、身分制度についての考えは私と少し違っていたが。
身分は不要で皆同じだと考える私とある程度の身分制度自体はあった方が良いという考えの彼でいつも論争をしていた。ただ、私にはそれがとても楽しかった。
そしていつしかお互い惹かれあっていった。
彼との日々はとにかく新鮮で楽しかった。
そこまでの高位ではないが、貴族の私と庶民の彼。
私は貴族社会という狭い社会の中で生きてきていたのだとまざまざと思い知らされた。
彼と一緒になれるならば庶民として生きていこうと心が決まった頃、彼に別れを告げられた。
後から知ったことだが、彼は私と出会った時には既に既婚者であったらしい。ちなみにこの国は一夫多妻制ではない。
騙されていたとは思いたくないが、思い返せば彼と行動する時は私の身分を利用していた気がする。
そんなことに気付くことが出来たのは、今はもう吹っ切ることが出来たからであるが。
しかし、当時は絶望の真っ只中であった。
そんな時だった。記憶を消してくれる店があるらしいと噂で聞いたのは。
私は何でも良いから今の状況から助けて欲しいとその店に向かった。
その店は看板すらなく、本当にお店かどうか分からなかった。外観はいたって普通の家。
店か家か分からず入るのを躊躇っていると、ふんわりと紅茶の良い香りが漂ってきた。窓越しからよく見たら、レースのカーテンの隙間から紅茶の瓶が見える。値札らしきものがついているのも見えた。
やはりお店だと確信して、その店に入った。
「あの…」
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは思わず見惚れるほど綺麗な顔をした少年。
あら?と、キョロキョロと大人の人を探してみるが見当たらない。今日はお休みだったのかしら、と少ししょんぼりした。
そんな私に少年は、
「僕が店主だよ。君は…紅茶を買いに来たわけではなさそうだね」
ドキリとすることを言った。
「どうして…?」
何故、分かったのだろう。私が紅茶に目もくれなかったから?それとも、この店はそういう客ばかりなのだろうか?
困惑して立ち尽くしたままの私に少年は近付き「依頼は奥の部屋で聞くから」と、別の部屋へ案内してきた。
いまだ困惑のままだが、少年に誘われるままついていく。
その部屋にはソファとテーブル、書斎机と書棚といった必要な物しか置いていない簡素な部屋だった。
ソファに案内されて、何も考えずに一人ですとんと座る。
少年はお茶の準備をしていたようで、気付いた時にはテーブルにティーカップが置かれていた。
「先に紅茶をどうぞ」
カモミールとオレンジブロッサムの香りが鼻を擽る。少しだけ気持ちが落ち着く。
「良い香り…」
しばらく紅茶を堪能して、カチャとティーカップを置いたと同時に少年に尋ねられる。
「君は何を消したいの」
少年には分かっているのだ、とその時思った。
だけど不思議と怖くはなかった。
私は彼とのことをすべて話して、彼のことを忘れたいと願った。
けれども少年は、
「それは消さない方が良いかもね」
と私に冷たく言ったので、思わず「そんなっ…!」と口から出た後はひたすら涙が流れた。
これは私の推測だけど、彼との記憶を消すということは様々な人との出会いすらも無かったことになってしまうからだったのではないだろうか。少数派意見の人たち、騙し騙されるということ。今の私を作り上げた経験を無かったことにしてしまうから、少年は消さない方が良いと言ったのではないだろうか。
たしか、関連するすべての記憶が消えてしまうと言っていたと思う。
そんなことに気付いたのは、少年がこの国からいなくなった後だったけれど。
それからのことはあまり覚えていない。どうやって店から出たのかも記憶にない。
ただ少年から『この店のことは決して他言しない』と約束させられたことだけは覚えていた。
私は絶望のままとぼとぼと来た道を引き返していく。
どれくらい泣いてどれくらい歩いただろう。
さすがに私は疲れてしまい、近くにあった公園のベンチに座り込んでしまった。どんどんと辺りは薄暗くなっていく。
それでも涙は流れ続けていた。ようやく涙が落ち着いたその時、
「どうされましたか?」
と、少し低いけれど落ち着きのある声でそっとハンカチを私に手渡しつつ、優しく声をかけてきた男性がいた。
私はその声にどこか聞き覚えがある気がして、ふと顔を上げた。
「あ…」
「…アイリ?」
アイリスという私の名を唯一略称で呼ぶ彼。
「ルアーヌ伯爵…」
「やだな。前みたいにヴィーと呼んでおくれ」
彼の名はヴィクトル・ルアーヌ。幼なじみだ。幼い頃はよく二人で遊んでいた。
成人する少し前に彼は勉強をするためと隣国に行ったっきり帰って来なかった。それっきり何の連絡もなかったため私は彼のことをすっかり忘れていた。
「どうして?」
「それは…君に会うために。でも、伯爵家にお願いしに行く前に君に会えた。…アイリはそんなに赤い目をしてどうしたんだい?」
「わ、私…」
彼の優しい声にぽろぽろとまた涙が溢れ出す。
そんな私の隣に座って、ずっと優しく背中を撫でながら私の話を聞いてくれた。
久しぶりに会う友に聞かせる話ではなかったけれど、彼の優しく懐かしい声に心が弱っていた私はすべてを話してしまった。先ほどの店の話はしていないが。
ひとしきり私の話を聞いた彼は「そう…」と言って沈黙してしまった。
私は話終えてすっきりしたこともあり、少しずつ冷静になっていた。帰って来たばかりの彼に聞かせて良い内容ではなかった。私はとても恥ずかしくなった。
その場から、彼の前から早く立ち去りたくてさっと立ち上がると彼は逃がさないとばかりに私の手首を握ってきた。
私は困惑して彼の方を向くと、彼も困惑したような顔で私を見つめていた。
「…話を聞いた後に言う言葉ではないと分かっている。分かっているが言わせて欲しい。僕は君と一緒になりたくてこの国に戻ってきたんだ。今はまだ僕のことを考えられなくても良い。僕のことをきちんと見てもらえるまで、考えてもらえるようになるまで、いつまでも待つよ。返事はそれからで良い。だからアイリの側にいることを許してくれないだろうか?」
その時は深く考えずにこくりと頷いただけだった。彼の言葉の意味をきちんと理解出来るまで、まだ心が落ち着いていなかったのだ。
それから彼はその時の言葉の如く、決して私を急かすことも彼の気持ちを押し付けることもせず、ただひたすら私の側に居てくれた。
私の心が落ち着くまでかなり時間がかかってしまったが、それでも彼は辛抱強く待ってくれた。
いつしか彼に対する想いは私の中で愛情に変わってく。
数年後にようやく彼の想いに答えることが出来た。
それからはとても穏やかで幸せな日々だった。
彼は先に逝ってしまったが、足の悪い私の面倒を見てくれる孫までいる。
彼には感謝をしてもしきれない。
そして私の人生を変えてくれた少年にも最後に御礼を言いたい。
私の人生はもうあまり長くない。
最後の我が儘をかなえて欲しいと孫に無理を言って連れ出してもらった。
そして、少年に会って話したかったことをすべて話した。思い残すことはもうない。
私の人生はたくさんの人に支えられて幸せだった。ありがとう。
◇◇◇
車椅子に乗った老婦人を押す青年は何度も振り返って会釈をしながら帰っていった。
フィンとモネはそんな二人が見えなくなるまで見送った。
「さて、今日はもう店を閉めよう」
んーっと伸びをしながらフィンはモネに向かってそう言った。
モネはその言葉に頷いて閉店の準備をしながら、気になっていたことをフィンに聞いた。
「私もお話を聞いて良かったのでしょうか」
「…後はよろしくね」
フィンはモネの問いには答えず、依頼部屋へ戻って行った。
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