4.消さないこともあります
「ここで良いの?」
「ええ、ここで間違いないわ」
「でも看板も何も出ていないよ」
「そうね。だからこそ、ここだと言えるわ」
車椅子に乗った品の良さそうな老齢の女性と、その車椅子を押す孫らしき青年。
二人が訪ねて来たのは、辺鄙な場所にある店名のない紅茶専門店。
今日は看板が出ていない。店主が本日喫茶中止と言ったのだ。
「ずいぶんと可愛らしいお店ね」
コロコロと笑いながら、老婦人はどこか懐かしそうに目を細める。
青年はそんな祖母を見て頬をほころばせながら店の扉を開く。
「いらっしゃいませ」
いつものようにモネがニコニコと笑みを浮かべてお客様へ挨拶をする。
声をかけてきたモネを見て瞬きも出来ずに釘付けになったままの青年。
扉を開けたままで動こうとしない青年に老婦人は店の中へ入れて欲しいとツンツンと杖で軽くつつく。
青年はハッとして慌てて車椅子を移動させ、二人とも店内へ入りパタンと扉を閉める。
店内はところ狭しと茶葉が並べてあり、ふわりと良い香りが漂っている。
「あらまあ、可愛らしい方ね。ジルベルトが見惚れるのも無理はないわ」
「そんなんじゃないよ…」
頬を軽く染めてジルベルトと呼ばれた青年は老婦人に答える。
老婦人はそんな青年を見ながらまたコロコロと笑い出す。そしてひとしきり笑った後、あらそうだったわと思い出したかのようにモネに向かって今日の目的を言った。
「店主さんはいらっしゃるかしら?お会いしたいの」
「少しお待ちください」
店主が本日喫茶中止ということは、記憶喪失業の方はお休みである。
依頼とは言っていなかったが、店主に会いに来たということはそういうことではないだろうか。
モネは店主であるフィンにどうするか尋ねるために奥の部屋へ向かう。
コンコンとノックをすると、少しだけ間があって『なに?』と眠そうな声で返事があった。
「お客様がお見えのようですが、いかがされますか?」
「どんな客?」
「気品のある老婦人と顔の良い青年です」
「…君がそんな風に言うのは珍しいね。いいよ、ここへ通して」
「はい」
そんな風に、とは青年の方の言い方である。モネは人の顔の造形について何かを言うことはない。だが、今回は『顔の良い』と言っていた。少しずつ綻びが出ている。そろそろ考える時期なのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、再び扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
そう言って、転げていたソファから起き上がり客を出迎える。
ガチャリと扉が開き、車椅子がキイと小さく鳴きながら入ってきた。
しかしフィンが先に目についたのは車椅子を押す青年。モネが『顔の良い』と言っていたのでつい見てしまったのだ。
(ふぅん…たしかにね)
清潔に整えられたやや明るめのアッシュブラウンの短い髪、すっと通った鼻筋。品の良さそうな身のこなしをしており、その雰囲気だけでも女性が振り返りそうである。
そして車椅子に乗った老婦人を見てフィンは少し驚いてしまった。
「貴方は本当に変わらないのね」
同様に老婦人もフィンを見て少しだけ驚きつつも、懐かしそうな顔をしてそう言った。
◇◇◇
静かな部屋にカチャカチャとティーカップの音が鳴る。
モネが紅茶の準備をしているのだ。数は4つ。
珍しくモネも同席することになった。
コトリと皆の前に紅茶が準備されると「どうぞ」と言いながら、フィンは一番最初にティーカップに手をかける。
「こんな所まで…よく探したね。僕に恨みでも言いに来た?」
一口紅茶を飲んで、フィンは老婦人に向かってそう聞いた。
その言葉に青年は持っていたティーカップを少し乱暴に置いて、何かを言おうとしたが老婦人に止められる。
老婦人はフィンの目を見つめながら穏やかな声で…
「恨みなんてこれっぽっちもないわ。私は貴方に御礼を言いに来たの」
「…そう」
それだけ言うと、フィンはまた紅茶を飲み始める。ホッとしたような、いや、少し照れているようにも見える。
そんなフィンを見て、ふふふと小さく笑いながら老婦人は話を続ける。
「貴方のおかげで、今こうして…孫まで出来て幸せだわ」
「………」
老婦人の言葉にフィンは答えない。答えられるはずがない。
何も言わないフィンに少しだけ寂しげな顔をして、更に話を続ける。
老婦人が話をする間、フィンも孫の青年もモネも、誰も一言も口に出さなかった。
そして老婦人はひとしきり話を終えた後、冷たくなった紅茶を飲み干し、最後に一言こう言った。
「ありがとう」
店から出た祖母と孫は静かに来た道を戻っていた。
思い出したようにあの人はちっとも変わらないわねと呟いて、ふふふと祖母が笑った。
機嫌が良いらしい。といっても、機嫌が悪い祖母は見たことがなかったが。
今日はそんな祖母の秘密を知ってしまった。
孫である自分が知っても良かったのか。
そんな孫に気付いたのか祖母は何か聞きたいことはある?と聞いてきた。
咄嗟に聞かれたので孫は思わずずっと気になっていたことを聞いてしまった。
「彼は何者?」
「私の人生の恩人よ」
祖母はこれまで見たことのないような笑顔でそう言った。それは孫が見た、最初で最後の心から笑ったであろう顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます