3.ウィレムの依頼
あの人との出会いは…そう、美術館だった。
ぼうっと絵に見惚れて突っ立っていた私にとんっとぶつかってきたのだ。
「「す、すみません」」
お互いがそう言って頭を下げて謝りあう。顔を上げると、前髪を目が隠れるまで伸ばしている男の人。長い前髪から覗く淡いグリーンの瞳がとても印象的だった。
「怪我はありませんか?」
いたって普通の声なのに不思議と耳に残る。彼の言葉が頭の中を巡る。
「あ、け、怪我はありません。ぼーっと立っていてすみませんでした」
慌てて答えた私を見て彼はクスリと笑みをこぼした。そのあまりにも綺麗な微笑みが更に私を惹き付けた。
「貴女のお名前は?」
それが彼と初めて会った日のことだった。
翌日、お詫びにとカフェで待ち合わせる約束をした。
そこのカフェは紅茶とケーキが有名なお店で、私は選びきれずに悩んでいた。
「季節限定のケーキも捨てがたいけど定番も食べたいし…。あ、でもこのケーキにするならミルクティーよりレモンティー?あぁ~迷う」
くすくすと笑う声が聞こえてハッと気付く。
昨日美術館で会った彼とカフェをしていたのだった。
「す、すみません」
「いいえ。好きなものを食べてください」
いまだにくすくすと笑みをこぼす彼。
彼の名はウィレムと言った。
私の好きな画家と名前が似ている。そのことも彼に対して興味を持ったひとつかもしれない。
「ウィレムさんはお決まりですか?」
「僕ですか?…僕は甘いものは苦手なんです」
「!」
少し申し訳なさそうにウィレムは答えた。
ということは、このカフェにしたのは私のため?そうだったら…と思うと少しだけ嬉しくなった。
「ミラさん、決まりましたか?」
ウィレムの顔を正面から見るのが妙に恥ずかしくなり、メニュー表ですっぽり顔を覆い隠していたミラに向かってウィレムは優しく問いかける。
「あ、は、はい」
メニュー表からそっと顔を覗かすと、何だか甘い顔のようなウィレムが見えた。
ミラはますます顔を赤くしながら、何とか注文を終えた。
「今日はありがとうございました」
カフェから出ると私はウィレムに向かってお礼を言う。
お詫びはこれで終わり。もう会えないと思うと少し寂しくなった。
「…また会ってもらえませんか?」
「え…?」
まさか彼も同じ気持ちで?と一瞬思ったが、ただ美術の話が合ったからだろう。先程のカフェで思いの外長い時間滞在してしまった。
美術の話で思わず意気投合してしまい、話が盛り上がりすぎたのだ。
「あ、その…やましいことはありませんから!」
長い髪の隙間から見える顔がうっすらと赤く染まっている。
何だかかわいいなと思ってしまった。
「ふふっ。私も…とても楽しい時間だったのでもう少しお話したいと思っていました」
「それでは!」
「ええ、もちろんよろこんで」
そうしてウィレムとミラの仲は近付いていった。
◇◇◇
きっかけは何の話をしていた時だろうか。
永遠の命とは、となかなか小難しい話になったのだ。
「長い時を過ごすというのは憧れますけど…私は限りある時間を精一杯私として生きていたいです」
「…そうですよね。今の時間というのは大事ですからね」
ウィレムはそう言って少し寂しそうな顔をしていた。
何かあるとは思っていたが、その時は初めて見た彼の切ない顔に何も言葉にすることが出来なかった。
ウィレムとお付き合いを始めてしばらく経ち、彼の口調も砕けてだいぶ私に心を開いてくれるようになった頃。私は自分の不注意のせいで大怪我を負いそうになった。
負いそうになった、というのは怪我をする寸前にウィレムが庇ってくれたからだ。
それまで、彼と過ごす時にほんのちょっと不思議なことはあるなと思っていたが、特に不自然とは感じていなかった。
しかし、今回ばかりは不自然すぎた。
ガラスですっぱりと切れて骨が覗いていたはずの腕が、あっという間に治ったのだ。私の目の前で。
「ど、どうして…」
目の前の摩訶不思議な出来事に頭がついていかない。
すぐに治って良かったとか、私を庇うなんてとか、いろんな思いが駆け巡り混乱は混乱を招いていた。
そして思わず、
「こんなの人じゃない」
おそらく彼には言ってはいけない一言だったのだ。
みるみる悲愴な顔つきになり「ごめん」と言って、部屋から出ていった。
カタカタと震える体がおさまり、ハッと気付いた時には冷えきった部屋に一人。
最後に見た彼の顔を思い出して、咄嗟に部屋を飛び出していた。
彼に謝るために。
ひたすら走る。走って走って息が上がりすぎた頃にようやく寂しげな彼の姿を見つけて声をかけようとした。
しかし、それは叶わなかった。
ミラに向かって大きな車が吸い寄せられるようにぶつかってきたからだ。
遠退いていく意識の中、
(待って!まだ私は大事なことを彼に伝えていない)
そしてミラは意識を失った。
ウィレムは背後で大きな音が聞こえたため、事故か?と思いその場所へ向かった。
そこで見たのは大きな車の下敷きになって、血まみれになっているミラの姿。
生まれて初めて血の気が引く感覚がした。
ミラに駆け寄ることも出来ずにただ立ち尽くしていた。どれくらいの間そうしていただろうか。
気付けば周りには人が集まっており、サイレンの音がだいぶ近くで聞こえた。
ハッと意識が戻り、真っ暗になっていた視界に色が付いていく。その時にようやくミラに近付いていく。
鮮やかな赤で濡れているのに青い顔のミラ。
人の何倍も何十倍も生きているのに、肝心な時には何も出来ない自分。
泣きたいのに涙は出てこない。ミラの姿を認めたくないのかもしれない。
救急車が到着してミラが運び込まれると同時に一緒に救急車に乗る。
そして病院に運ばれてミラは治療を受けた。
怪我は見た目や想像していたよりも重症ではなかったらしい。少し血が多く流れすぎていたようではあるが。
それを聞いた時にはホッとした。ミラが助かったことに心から安堵した。
それからミラが目を覚ますまでと思い毎日病院へ通った。
だが、しばらく経っても彼女が目を覚ますことはなかった。
医者の話だと、体は回復しているらしい。しかし、事故の前に何か精神的なショックを受けたために目を覚まさないのではないか、と言っていた。
ウィレムはそのミラのショックな出来事に心当たりがありすぎた。
しかし、もしかしたら…と一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目に入った。
その頃にはミラの顔色はあまり良くなくなってきていた。
そして、そっと体に触れた時に恐れていたことが近付いていることに気付いた。
そんな事実から目を逸らしたい。しかし、背けたままだと取り返しのつかないことになってしまう。
ふと昔からの友人を思い出す。
彼なら…。縋る思いで彼に会いに行った。
彼は何も言わずに俺の依頼を聞いてくれた。
本当に感謝している。
そして…
「…ん…っ…」
長い間閉じられたままだった瞼が開かれていく。
ぼんやりとした視界の中に見えたのは白い天井とやけに美しいグリーンの瞳。
その瞳がじわりと揺れたかと思うと、ぽたりと水滴が頬に当たる。
「あ…」
見たことのない人だったのに、何故か私の瞳がじわじわと潤んでいく。
溜まりすぎた涙がこぼれてしまう前に瞬きをして、次に目を開けた時には彼はどこにも居なかった。
代わりに医者と看護師が病室に入って来た。
(あの人は誰だったのかしら…)
思い出せない。
大事な何かを忘れている気がするのに、何も思い出せない。
彼の淡いグリーンの瞳だけがひどくミラの心に残った
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます