ペーパレス

くるくま

ペーパレス

「えー、昨今の課題といたしまして、ペーパレス化をより一層推し進めていかなければならない、ということが挙げられます。これに関しまして」


隣の課の課長が何か話している。またペーパレス化の話か、と倉野は思った。最近話題のようだが、倉野はどちらかと言えば紙のままのほうがいい気がしていた。電子的な書類になるとハンコも電子印にとって替わるのだが、それでは少し味気なく感じる。部下から渡された書類に自らハンコを押す。その瞬間、倉野は自身に与えられた、決して大きいとは言えない権力を行使する快感に浸るのだ。


しかし、今の倉野にとって、書類が電子になろうがなるまいが、ハンコが廃れようが廃れまいが、どうでもいい話だった。昼食後すぐに始まったこの会議は、昨晩仕事に追われてほとんど寝ることのできなかった倉野にとって、まさに苦痛であった。


眠い、眠すぎる。例の課長はまだ話し続けている。合唱団に入ったら大活躍することだろう、心地よいテナーボイスが倉野の眠気を増幅させる。この会議には部長も参加していて、部長は職務態度に特に厳しいことで有名だった。絶対に寝るわけにはいかない。


しかし、倉野の瞼は、まるでお互いに愛し合っているかのようにくっつこうとする。倉野は筆箱からボールペンを取り出し、目立たないように隠しながら、ペンの先を自分の手のひらに向かって何回も突き刺し始めた。会議はこの議題で終わりだったはずだ。この方法でなんとか持ちこたえるしかない。


手のひらへの、ペン先の刺突が500回を超えたころ、別の困難が倉野を襲い、彼の眠気は一気に吹き飛んだ。突然強い腹痛を催したのだ。昼に食べたトンカツがよくなかったのかもしれない。いまや彼のおなかの中では雷鳴がとどろき、ときたまピカリと稲光が走る。水位はとうに危険値を超え、すこしの衝撃でも一気に決壊してしまいそうだった。


会議はすでにまとめに入っていた。あと少し耐えれば悲劇は免れる。


倉野は耐えに耐えた。彼が知っているすべての神、仏の名を唱え、彼を危機的状況から救ってくれるよう念じた。ついに、会議は終わった。


倉野はすぐさま席を立ち、荷物を机の上にほうり出したまま一番近いトイレに駆け込んだ。


幸い、個室には空きがあった。倉野は便器に腰掛けると、用を足した。


次第に倉野は落ち着きを取り戻した。すると、さきほどの会議の記憶がよみがえってきた。


議題は、事務所の大規模改装と、在宅勤務に対応できる制度作りと、あともう一つ、何かあったはずなのだが、そのもう一つが倉野にはどうしても思い出せなかった。まあいい、と彼は思った。そのうち思い出すことだろう。


おなかの様子もだいぶ落ち着いた。倉野は尻を拭こうとして、右手で壁のほうをまさぐった。しかし、彼の右手はむなしく空を切った。




そこには、紙が、なかった。





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