第4話

 そのほんの数日後のことだった。


 台風で一度ぐっと下がった気温は冷えやすく、再び身震いするほどの寒さが到来した。


 いつものように二匹でくっついてまどろんでいたら、急にむくりとマロンが起き出した。


『どうしたの? マロン』

『あずきちゃん、またあったかいところ行こうよ。わたし、寒くなって来ちゃった』


 言われてはじめて、わたしも部屋の空気の冷たさに気づいた。マロンは少し震えているようにも見えた。


『そうだね。そうしようか』


 わたしの頭には、先日マロンと過ごしたお風呂のふたの上の心地良さが刻み込まれていた。断る理由はないどころか、妙案だと思った。こういう冷え込む日は、お風呂のふたの上でぬくぬくするに限る。


『やったぁ。行こう行こう』


 我先にと駆け出すマロン。半分寝ぼけた頭で微笑ましく後ろ姿を見送ったわたしは、ふと、我に返った。


『待ってマロン! 危な……』


 じゃぼん、という耳慣れない音が聞こえたのはその直後のことだ。


『マロン!』


 慌てて後を追うも、バスルームにいるはずのマロンの姿が見えなかった。ジャバジャバという激しい水音と、喘ぐようなマロンの声だけが響き渡っていた。


『あずきちゃん! 助けて! 怖い!』


 状況を把握するのに、さほど時間は要しなかった。その時に限って、いつもなら閉じているはずのお風呂のふたがあきっ放しになっていた。


 マロンはそうとは知らず、先日と同じようにお風呂のふたの上に飛び乗ろうとしたのだ。


 そして――


 わたしは全身から血の気が引くのを感じた。マロンはそのとき、お風呂の残り湯の中で必死にもがきながら助けを求めていた。

 

『助け……助けて! あずきちゃんっ! ……きちゃんっ! ……たすけてっ! 怖いよっ! あずきちゃんっ!』


『マロンっ! マロンっ!』


 マロンの名を呼びながら、前脚を浴槽の縁にかけ、必死に中を覗き込もうと試みる。しかしわたしの身体では背が足りず、マロンの姿を捉えることは適わなかった。


 激しい水音とマロンの悲鳴に、頭の中がパニックになる。


 一瞬後を追って飛び込もうかと身構えたけれど、すぐに思い留まった。

 同じトイプードルのこの身体では、飛び込んだところでこのつるつる滑る浴槽の高い壁をマロンと一緒に脱出できるとは到底思えない。


 それでも……歯を食いしばり、何度も飛び上ろうと力を入れるも、わたしの脚はどうしても言うことを聞いてはくれなかった。


『……けて! ……ずき……ゃん…………助……て! 怖…………あず……ち…………!』


 そうこうしている間にも、マロンの声が少しずつ弱々しくなっていくのがわかった。わたしの身体の中心にある心臓が、ドクンと大きく波打った。


『マロン、今助けるから待ってて! 絶対助けるから!』


 わたしは勢いよくバスルームを飛び出した。そして、体中のあらん限りの力を振り絞って、吠えた。


 ずっと吠えてはいけないと教わってきた。


 吠えることは悪いことだと。


 吠える犬は悪い犬だと。


 その教えを忠実に守り続けてきたわたしは、このとき生まれて初めて、咆哮ほうこうした。


『誰か! 誰か助けて!』


 自分でもびっくりするぐらい、大きな声で叫びながら、家中を走り回った。


『マロンが! マロンが大変なの! 誰か! お願い! 助けて!』


 家の中には誰もいないことはわかっていた。それでもそうせずにはいられなかった。わたしにできることといったら、どこかにいる人間が気づいてくれるまで、力いっぱい叫んで、暴れ続けることしかなかった。


『誰か! 助けて!』


 半狂乱になりながら、家の中を駆け巡る。普段は入ってはいけないと言われているパパとママの寝室にも入った。ベッドカバーやまくらを噛んで振り回し、置いてあるものを身体でなぎ倒した。未だかつて開けたことのないお兄ちゃんの部屋のドアも、何度も何度もジャンプして、前脚や牙をノブにひっかけて無理やり開けた。中に誰もいないとわかってからも、布団をぐちゃぐちゃにし、机の上をかき乱し、ごみ箱をひっくり返して暴れまわった。わらにもすがる思いで、人間の匂いを探し求めた。


『マロンが! お願い! 誰か! マロンを助けて! 』


 ずっと、ずっと吠え続けた。


 もっと大きく!


 もっと遠くへ!

 

 パパ!


 ママ!


 お兄ちゃん!


 誰か!


 お願い!


 助けて!


 助けて!


 助けて!


 声の限り叫び続ければ、きっと誰かが助けてくれると信じていた。


 わたしのこの声は、きっと誰かに届いてくれると信じていた。


 でもわたしが腹の底から振り絞り、必死に続けた咆哮ほうこうは、結局誰の耳にも届かなかった。


 帰宅したママは、泥棒に入られでもしたかのように荒れ果てた部屋と、かすれきった声で鳴くわたしに驚き、そして――





 お風呂に浮いたまま動かなくなったマロンを見つけた。





     ※     ※     ※





 わたしはあれから、ずっと一人だ。


 あれだけ大暴れしたのだから、きっともうこの家にはいられなくなると覚悟していた。しかし、ママもパパもお兄ちゃんも「あずきはマロンを一生懸命助けようとしてくれたんだね。偉かったね」と褒めるばかりで、一言も責められることはなかった。


 マロンをあんな目に遭わせたのは、わたしの責任だというのに。


 おかげでわたしは、相変わらずマロンが来る前と同じような、一人きりの生活を続けている。でもマロンが来る前と、いなくなってしまった後では、その意味が大きく変わってしまった。

 

 一人で過ごす寂しさとともに、こうなることを招いてしまった自分のふがいなさを噛みしめる毎日。


 あの時ちょっと目を離したばかりに、マロンを失ってしまった。


 ずっとそばにいてと言われていたのに。

 ずっとそばにいると約束したのに。

 一人で行かせてしまったから。


 どんなに月日が流れても、マロンのいない空虚さは和らぐことはない。いつもわたしの背中を追いかけ、わたしのそばをくっついて離れなかったマロンがいたのは、わずか数か月の間の出来事だったはずなのに。


 こうして一人でいる時間のほうが、長かったはずなのに。


 いまだに一人でいると、あの子の声が聞こえたような気がする時がある。


『あずきちゃん、大好き。わたし、あずきちゃんの匂いが大好きだよ』


 隣にあの子の気配を感じる時がある。


 もう二度と戻ることのないぬくもりに思いを馳せながら、ずっとマロンに言いたかったけど、言ってあげられなかった言葉を胸に抱きしめて、今日もわたしは一人、お気に入りのクッションの上で静かに目を閉じる。


『マロン、わたしも大好きだよ』

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お風呂のふたと、いつも隣にいてくれたキミの身体のぬくもりを 柳成人(やなぎなるひと) @yanaginaruhito

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