第3話
太陽の日差しがどこかとぼけたような色合いに変わり、木々に生い茂る葉の色も急激に褪せてきたように感じる頃――
急に、ひどく冷え込む日があった。
台風がどうのこうのと繰り返していた朝のニュースどおり、午後に入ると風がガタガタと窓を揺らし、外では聞いたことのないようなごうごうという音を立てて風が吹いた。
『あずきちゃん、怖いよう。何が起きてるの?』
時おりバンッと何かがぶつかるような音が外から響いてきて、そのたびにマロンは縮み上がった。
『大丈夫。台風っていって、強い風が吹いてるだけ。きっと夜にはおさまるはず』
『そうなんだ。あずきちゃんがそう言うなら安心だね。でも怖い』
『大丈夫。心配しないで』
わたしはマロンの耳元で囁くように言って、ぴったりと身を寄せる彼女の背中を舐めた。そうしているうちに落ち着いてきたのか、マロンの身体の震えは徐々におさまっていった。
パパもママもお兄ちゃんも出かけていて、家には誰もいない。テレビの音も人の声もなんの音もないせいで、外で暴れる風の音がより激しく聞こえてきた。
そういう時はとにかく、誰かが帰ってくるのをじっと待つしかない。そうしているうちに、やがて風もおさまるはずた。
しかし家の人が帰ってくる前に、マロンの身体に一度はおさまったはずの震えが再びよみがえってきた。
『どうしたのマロン? 怖い?』
『ううん、違う。寒いの』
台風によって一気に下がった気温に、マロンは震えているのだった。
ママは夏の暑いときや冬の寒い日にはエアコンをつけていってくれるけれど、急に暑くなったり、寒くなったりする季節の
部屋の中はずいぶん冷え込んでいた。わたしもマロンがいてくれたから良いけれど、たった一人でいたら震え上がっていたかもしれない。
マロンはわたしより一回り身体が小さいから、余計に寒さがこたえたのだろう。
震える彼女の背中を舐めながらどうしたものかと考えを巡らしていると、ふと一つのアイディアが浮かんだ。
『マロン、おいで。あったかいところに行こう』
『あったかいところって……嫌だ。わたし、シャンプーは嫌い』
わたしにくっついてきたマロンは、バスルームの入り口で硬直したように足を止めた。
マロンにとってバスルームは苦手なシャンプーをされるところ、という固定観念があったのだ。
『大丈夫。シャンプーじゃないよ』
わたしはとことことバスルームの中へと踏み出すと、お風呂のふたが閉まっていることを確認して、ぴょんとその上に飛び乗った。
『ほら、おいで』
『そんな高いところ、無理。怖い。できない』
『大丈夫よ。マロンならもうできる』
マロンを勇気づけようと、わたしは諭すように言った。成長した彼女の身体なら、そのぐらいの高さは平気で飛べるはずだった。
マロンは恐る恐るだったけれど、ぐっと全身を沈み込ませるように身構え、反動を利用して飛び上がった。ふわりと浮くようにふたの上に乗った次の瞬間、
『あったかい……』
と大きく目を見開いた。
お風呂の中には前の日の夜の残り湯が入っていて、その熱をたっぷり吸いこんだお風呂のふたはほんのりと温かい。
前の年の冬、一人きりで留守番しているときにたまたま発見した秘密の場所だった。
『ここ、去年の冬に見つけたんだ。あたたかくて気持ちいいでしょう?』
『うん、なんだかポカポカしてるね。気持ちいい。すごいね。あずきちゃん、なんでも知ってるんだね』
お風呂のふたの熱だけでも十分にあたたかいのに、やっぱりマロンはわたしの身体にぴたりと身を寄せてきた。
『わたし、一緒にいてくれるのがあずきちゃんで良かったなぁ』
目を閉じ、うっとりとしたような顔でしみじみとマロンが言った。
『お散歩のときに会うキャンキャン鳴くチワワとか、今にも飛びかかってきそうな柴とか、怖い目で睨みつけるゴールデンとか、ああいう犬と一緒だったらと思うと、生きた心地がしないもの』
『そうかな? ああいう犬だって、本当は優しいかもしれないよ』
わたしが言うと、マロンは弾かれたように顔を上げた。
『じゃああずきちゃんは、わたしじゃなくてああいう犬でも良かったと思う?』
真摯に見つめる黒々とした瞳に、思わず胸が詰まった。
『……いや、わたしもマロンで良かったと思うよ』
『なら良かった。ずーっとこうしてそばにいてね。わたし、あずきちゃんの匂いが好き。あずきちゃんのそばにいるのが好き』
『……うん。そばにいるよ』
呆れたように言うわたしのお腹に密着するように、くるりと身体を丸くするマロン。
わたしたちはそうしてママが帰ってくるまでの間、お風呂のふたの上で寄り添ったまま、ぬくぬくと過ごした。
お風呂のふたの上で寝るのははじめてではなかったけど、マロンと二匹でこうして一緒にいると、外の風の音が気にならなくなるぐらいの安心感に包まれた。まるで母親の胎内を思わせるような、不思議な感覚だった。
この時の、お風呂のふたと隣にいたマロンの身体のぬくもりを、わたしは死ぬまで忘れることはないだろう。
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