第2話

 ある日突然、わたしの目の前からマロンの姿が消えた。


 マロンが来てから4ヶ月ほどが経ち、初めて会ったときにはコロコロとまりのように丸かった身体も、口が尖り、脚もスラリと長く伸びて、わたしと似た成犬っぽい風貌に変わってきた。

 トイレの場所を覚え、一緒に暮らす上での最低限のルールも守れるようになってきた頃のことだ。


『え? おでかけ行くの? ゲージ? やだなぁ。あずきちゃんは? あずきちゃんは行かないの? 嫌だ。あずきちゃんも一緒に行こうよ。わたし、あずきちゃんと離れるのやだよう。あずきちゃん』


 ゲージに入れられたあともキャンキャン鳴くマロンは、パパとママに怒られながら出かけたまま、なかなか戻ってこなかった。


 一体どこに行ったんだろう。


 わたしの胸の中で、不安が膨れ上がる。わたしも一緒ならともかく、マロンだけ連れていかれるなんて。

 マロンがやってきてからというもの、わたしたちはいつも一緒だった。家の中はもちろん、お散歩や病院、トリミングサロンだって。


 最初は目障りで仕方がなかったマロンの存在も、その頃には大きく変わっていた。いつもならわたしの後をついて回るマロンの姿がないことに、言いようのない空虚さを感じた。横になったわたしにぺったりとくっつく一回り小さな身体がないことに、底知れぬ喪失感に襲われた。


「あずきはすぐできたのにね」

「あずきはこんなことしなかったのになぁ」


 なかなか物覚えの悪いマロンに、時折ぼやくパパとママの声が思い起こされた。

 最初は小さなマロンを盲目的に愛してやまなかった彼らも、日々を過ごすうちにマロンの不器用さを認識したようだ。


 ちゃんとしたブリーダーの家で、生まれて間もない頃から厳しく育てられたわたしと、トイプードル同士を飼っていたらたまたま赤ちゃんが出来て生まれてきたようなマロンを、比べる時点で間違っていたのだけど。


 わたしはろくにしつけなどされずともトイレを覚え、無駄吠えをせず、噛みつくことなんて絶対になかった。


 特に吠えたりするのはもってのほかだ。

 生まれてすぐの頃からわたしは「吠えるのは悪いことだ」「吠える犬は悪い犬だ」と徹底して教わってきた。

 それに比べるとマロンはよく鳴いた。寂しいと鳴き、おやつが欲しいと鳴き、遊んで欲しいと鳴いた。


『マロン、駄目だよ。鳴くと嫌われる。嫌がられるよ』

『でもパパもママもお兄ちゃんも、みんな声を出さないとわかってくれないじゃない。鳴かないなんて、わたしどうしたらいいかわからないよ、あずきちゃん』


 わたしがどんなに諭しても、生まれてからずっとこの調子で生きてきたマロンは、なかなか理解してくれなかった。


 わたししか育てた経験のないママたちから見れば、それらの他ありとあらゆる全てのしつけをゼロからはじめなければならなかったマロンは、完全に想定外だったに違いない。

 とはいえ「手のかかる子ほどかわいい」という言葉通り、ぼやきながらも彼らはマロンを溺愛していたから、何も心配する必要はない……のだと、わたしは何度も自分に言い聞かせた。


 しかしあんまり出来が悪いからといって、ひょっとしたらこのまま帰ってこないなんてことも……でもまさか、そんな……。


 不安に押しつぶされそうになりながら、身じろぎもせずにマロンの帰りを待ちわびていたわたしは、夜になって帰ってきた彼女を一目見て、マロンの身に何があったのかを悟った。


『あずきちゃん……なんだか頭がボーッとするの……。目がね……ぐるぐるするの……。お腹の中が……熱いの……。熱いよう、あずきちゃん……。助けて、あずきちゃん……。あずきちゃん……』


 ぐったりと横になったまま、うわごとのようにわたしの名前を呼び続けるマロンの小さな身体は、包帯のような生地でできた服にすっぽり包まれていた。お腹のあたりから鼻にツン、と刺さるような嫌な匂いがした。


 わたしと一緒だった。


 二年前、わたしも同じ経験をした。病院に連れていかれ、眠っている間にお腹の中をいじられた。目覚めたあとも、ボーッとする頭とぐるぐる回る視界。引き攣れたようにジンジンと熱さを発するお腹。わたし自身が経験したあの痛みが、鮮明に蘇ってきた。


『マロン、大丈夫。すぐ良くなるから。安心して。明日になれば、スッキリするから。心配しないで』

『……良かった。ありがとう、あずきちゃん……。あずきちゃんがいれくれて良かった……。一緒にいてね、あずきちゃん……どこにも行かないでね……ずっとそばにいて』

『行かない。大丈夫だから安心して。約束する。どこにも行かない。ずっとそばにいるよ』

『……ありがとう。あずきちゃん、大好きだよ……』


 わたしがマロンの身体を舐めるのをママは「ばい菌が入るかも」と嫌がったけど、わたしはずっとマロンの身体を舌で撫で続けた。マロンの苦しみが、マロンの痛みが少しでも和らぎますように。そう願いながら、ずっとマロンのそばに寄り添い続けた。






 マロンは翌日には立って歩けるぐらい元気になった。少しだけ頭が朦朧として、お腹の熱は残っていたようだけど、あのミルク臭い幼犬用のご飯を食べられるぐらいには回復した。


『ありがとうあずきちゃん。あずきちゃんのおかげだよ。大好きだよあずきちゃん』


 2週間が過ぎる頃にはすっかり良くなって、マロンのお腹の大部分を覆っていた大判の絆創膏も剥がされた。

 ぷにぷにと無防備なぐらいに柔らかいマロンのお腹には、わたしと同じ、ギザギザの傷だけが残った。


『あずきちゃんとお揃いだね』


 マロンはそう言って、嬉しそうに自分のお腹の傷を舐めた。


『うん。わたしと一緒だね』


 わたしもそう言って、いたわるように彼女のお腹の傷を舐めた。


 その傷は、マロンがわたしと同じように、子どもを産めない身体になったことの証明だった。

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