第1話
彼女がやってきたのは、わたしがこの家に来て丸二年が経った頃だった。
「あずき、見て。新しいお友達よ。あずきと同じ女の子。仲良くしてあげてね」
ふやかしたドッグフードみたいに白茶けた色をした彼女は、マロンと名付けられた。わたしと同じトイプードル、生後3ヵ月の子どもだった。
『あずきちゃんって、いうの? よろしくね。あずきちゃん、とってもいい匂いがする』
無遠慮に近づいてきてくんかくんかわたしの匂いを嗅ぐマロンは、まだどこか知らない家と知らない犬の匂いがたっぷりこびりついていて、わたしは戸惑いを隠しきれず逃げるように背を向けたのを、昨日のことのようによく覚えている。
正直言って、マロンの
2年かけて築いてきたわたしだけの平和な生活を、平気な顔で我が物顔に荒らして歩くのだ。
そのくせ、なぜかわたしについてまわる。
『ねえあずきちゃん。わたし、あずきちゃんが好き。あずきちゃんの匂いが好き。あっ、待ってどこにいくの? わたしもいく。あずきちゃん待って』
一日中この調子だった。
わたしが水を飲めば隣からボウルに口を突っ込み、わたしがおもちゃを追いかければその後を追いまわし、わたしがお気に入りのクッションの上で横になれば隣にぴったりとくっついて丸くなる。
もしかしたら何か勘違いしてるんじゃないかと、言ってやったこともあった。
『わたしはあんたの母親じゃない』
『知ってるよ。でも、あずきちゃんはお母さんと同じ匂いがするわ。わたし、そんなあずきちゃんがとっても大好き』
そう言って隣で耳を伏せ、安心したように目をつむるマロンを邪険に扱うことはできなかった。ママやパパやお兄ちゃんはわたしたちがそうしてくっついていると「仲良くなれてよかった」と喜んだし、何よりわたしも、マロンの言葉によく似たものを感じていた。
ママにもパパにもお兄ちゃんにもない落ちつく匂いが、マロンにはあった。きっとそれが、同じ犬同士ということなのだろうけど。
思い返してみても、マロンが来たばかりの頃は大変だった。
ほんの少し前まで実の母親に甘えっぱなしだったマロンは分別も知らず、トイレの場所すらままならないようなお嬢様育ち。
『駄目だよ、そんなところでしたら怒られるよ』
わたしが止めても聞く耳を持たず、
『でもここが落ち着くの。ここじゃないとわたしおトイレできないかも』
なんて植木鉢の裏やソファーの脚の陰におしっこやうんちを漏らしたり。
そういうところにされると困るんだよなぁ。匂いついちゃうとわたしまで尿意が……なんて思っていると、やがて聞こえてくるのがママやパパ、お兄ちゃんの悲鳴。
「こんなところにおしっこしたの誰? 踏んじゃったじゃない!」
……誰って決まってるじゃない。一度だってわたしが
言葉が喋れるならそう言ってやりたいところだけど、2匹並べられて「次やったら怒るからね!」と不条理に怒られるばかり。
『ごめんね、あずきちゃんごめんね』
謝るくせに、その数時間後にはまた同じ場所におしっこを漏らしたりするんだから困ったものだ。
毎朝の日課だったママとの朝のお散歩も、マロンが来た次の日からは当然のようにマロンも一緒に出掛けるようになった。
それでもリードがそれぞれ一本ずつ、別々に二本だったうちはまだマシで、多頭用のリードに変えられてからは最悪だった。
一本のリードの途中から二又に分かれているタイプで、わたしはママの隣を大人しく歩いているのに、マロンはことあるたびに
『なにかの匂いがする!』
『ねえ、あれなに? あれなに?』
とあっちこっちうろうろしようとするのだ。その度に首を引っ張られるわたしにとっては大迷惑である。
ご飯だってママがわたしの成犬用とマロンの幼犬用をわざわざ分けて用意してくれたのに、
『あずきちゃんのご飯美味しそう。ちょっと食べてみてもいい?』
とグイッと横から首を突っ込んできたり。
仕方なくわたしがマロンのやたらベチャベチャしたミルク臭いご飯を食べていると、
「こらこら、駄目でしょ。これはマロンの! あずきのはこっちよ!」
となぜだかわたしばかりママに怒られたり。とばっちりとはこういうことを言うのだ。
当の本人はといえば、丸い黒目をくりくりさせながら、
『あずきちゃんごめんね、怒られちゃったね。でもやっぱりわたしあずきちゃんのご飯のほうが好きかも』
凝りもせずわたしのご飯に首を突っ込んでくるのだから、どれだけわがままに育てられてきたんだろうと、呆れたものだ。
一日の間にうんざりさせられる回数は数限りなく、なんとかしてこの子に出て行ってもらうか、大人しくゲージの中にでも入れておいてもらえないかと思案はしたのだけど、
『わたし、あずきちゃんが大好き。あずきちゃんの匂いが好き。あずきちゃんのそばにいると落ち着くの。あずきちゃん、ずっとそばにいてね』
そんな風にぺったりとくっつかれると、どうにも胸がムカムカするような、一方でぽかぽかと心があたたかくなるような気がしてくる自分に戸惑うのだった。
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