ログ:平穏を護る者(3)

 その夜、紗也の空読通りに天気は雨だ。明日の出立も叶わないだろうか。水量の増した川の音が恐ろしく近いが工学の知識をして自らを任ずる男の手が加わったのだ。ゲイツの腕は保障できる。

 今宵は明日の前夜祭として村人が吾作の住居で酒盛りに興じていた。広間の雨戸は開け放たれているが誰もその不用心さを気にしていない。その席にエリサはいた。ゲイツはというと村の男達と肩を組んで歌っている。男女の情愛を面白おかしく歌にした品の無いものだ。腰元に侍らせた村娘達もゲイツの若くて精力ある振る舞いに色目を向けている。

「どうら、俺ともひとつよろしくしよう。異国の娘なんて久しぶりだ」

 一方の自分は気づくと大柄の男に肩を抱かれていた。

 食事に集中し過ぎていた。

「長旅で疲れてる娘を見るのは忍びない、どうれ俺の按摩にかかってみろ。なに、この場で寝そべることはない。奥の部屋が空いている。あちらへ来い。たちまち気持ちよくしてやろう。そら、早く奥の方へ、さあ」

 ぐいぐいと肩に回された手が首筋をなぞりシャツの襟もとを乱す。男の鼻息は増すばかりで食器もまともに扱えない。しかしエリサは味噌汁をすする。

「俺に揉まれてよろこばぬ女はおらん……」

 やにわに男の手が襟の中に入ってきた。鎖骨を撫でられ男の手はさらに下の方に伸びてくる。その手が乱暴だった。

「あっ」

 エリサの手に持った汁茶碗がひっくり返る。床板に汁が広がった。男はそれを気にも留めず少女の胸ぐらで愉しもうとしている。

「ほうれ、手元を乱すほど良いだろう。さぁ、奥の部屋へ、さぁ」

「どいて」

「さ」

 軽く身をよじると男はエリサの胸に手を入れたままふわりと宙に浮かび上がった。頭上を軽く飛び越えた男が一転して体を踊らせると、床板に頭から打ちつけた。周囲にいた女たちがどよめいた。

「あんたすごぉい」

「せっかくの食事をこぼしてしまった、申し訳ない……何か拭く物を」

 眉尻を落としてエリサは給仕の女に詫びる。だが女は手と首をぶんぶん振った。

「いや、よかよか。それよりもあの酔っ払いを一人のしてくれたんだ、身体触られてたけど大丈夫だった?」

「別になんとも」

「ほぉう……」

 そう言ってエリサを見る女たちの目が一瞬だけ怖かった。男は気絶してしまい奥の部屋まで担がれて行った。まあ良い。食事を続ける。白い短冊状の食べ物をつまんだ。

 ――この匂い……山羊ネトのチーズだ。

 珍しいものではないがアオキ村でも食べられるとは思わなかった。山羊は畜産動物として多くの土地で見られる。その乳は加工して食用され独特のつんとした臭いはあるものの、果実酒に合うとして人々に愛好されている。

 うん、これは美味い。エリサの好物でもある。

 発酵に手間をかけただけ臭いが増すネト種のチーズは噛めばぽろりと崩れるが、そのまま舌の上で転がしているとゆっくり溶けだして旨味と香りが口いっぱいに充満する。深いコクを堪能しながら果実酒を口に含んで飽和した舌が引き締まる。果実酒は葡萄フサ製だ。味覚に平穏と急襲が止めどなく繰り返されその危険な緩急がたまらない。芳醇なチーズと果実酒の味わいにエリサはしばし夢見心地となっていたが、珍しく興が乗ってしまった。だんだんと頬が火照ってきた。

 エリサは座を離れて千鳥足を踏まぬよう冷静に、極めて冷静にすました風体をつくろって屋敷の濡れ縁、雨の降り込まぬ所で腰を下ろした。しばらく夜風に当たっていると雨脚は緩んで霧雨のようになった。片手の水呑椀にたっぷり注いだ酔い醒ましの水が空になる頃ようやくつくろわずに済む程度には自我を固められるまで回復した。

 傍らに――彼女も乱痴気騒ぎを休みたくなったのか――昼間作業を共にした娘が座ってきた。何度か会話をした彼女には親し気に笑いかけてくる事もありエリサもすでに多少の気を許している。

「ごめんな、ウチの馬鹿達が迷惑かけて」

 馬鹿とは男達を指しているのだろう。自分が絡まれていた事を気に掛けてくれてるようだ。

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