ログ:赤い双眸(5)

 山道を前にエリサ達は踏み出した足を躊躇の表情で引いた。足元のぬかるみが酷い。ブーツは足首を超える所まで沈みかけるし差し掛かりでこの様子だと斜面を超えるのは困難だろう。振り返ってみたモトリの顔にはどうにも哀れみか嘲りか判別しかねる表情が浮かんでいる。

「山には今日も入れませぬえ。ここの土は雨水をため込むから、途中で崩れたりするもんえ」

 晴天といえども歩いて行くのは土の上だ。多少の労苦にいといは無いが、地滑りの危険を冒す賭けで問われれば、眉間に力がこもってしまう。ゲイツも渋面でかぶりを振った。

 ――この村にもう一泊か。

 風が吹く。木々から無数の鳥が羽ばたいた。羽音が乱雑に降り注ぐ。鳥達の影は雲の充満する方へ進んでゆき、やがて黒い点となって消えた。


 ◇◇◇


「今夜も雨、降っちゃうね」

 柵にもたれて櫓の下に声を投げた。空見櫓を埋める森は湿気を含んだ生暖かい風でザワザワと音を騒がせている。もしかすると雨季に入ったのかもしれない。鉄平は紗也から受けた空読の結果を端末に打ち込んでいる。いつも通り眉毛が険しい角度をしている。おずおずと梯子から降りる。今日も怒られるだろうか……。

「紗也、よくできたな」

「えっ」

 自分の目を疑った。

 ……わ、笑った? 鉄平が、笑った? しかも……私を褒めた!?

「なんだよ、その辛い種子シドを食った機械兵アダルみたいな顔は」

「え、あっ、あぁ、いや、だってその」

 初めてだもん鉄平にそんな事言われたの。といった旨を上手くまめらない口で言う。

「そうだったか?」

「だ、だって鉄平いつも怒ってるから」

 ――こーんな顔してっ。

 自分の眉の間を指で押していつもの「逆八の字」を作って見せる。それを見た鉄平はなおのこと笑った。

「すまなかった!」

「えぇっ!?」

 ありえない事が起こった。鉄平が頭を下げたのだ。今まで鉄平がそんな腰の低さを示したことなんて一度も、全然、全く、寝ぼけてても、夢枕でも、見たことない。信じられないし訝しい。それでも紗也には清々しさが優ってしまった。ようやく自分の短気をバカみたいって気がついて、村で一番偉い人は私なんだと認めたんだね。

「なんか失礼なこと考えてやがんな?」

 全力で首を振った。

「だって鉄平の感じがいつもと違うから、どうしたんだろって」

「あー」

 鉄平は後ろ頭を掻いた。

「考えてたんだよ、昨日のお前を見てから。紗也、外に行きたいのか?」

「……うん」

「そうか」

 自分の記憶があるのはこの村に来てからだ。集落の人々が営んできた外界の話がいかに鮮明だろうと所詮は他人の記憶に過ぎない。

 この空の向こうにある世界を自分の目で見たい。山の外からの来訪者が語った見聞を自分の肌で確かめたい。そんな思いが昨日の堂の語らいで強まった。

 鉄平は黙ってしまった。

「鉄平?」

「…………」

「鉄平!」

「…………」

「鉄平ってば!」

「紗也」

「うぉわっ。なぁに」

 鼻息がかかる距離まで迫ったところで反応され紗也の方が驚いた。鉄平は口元をかすかに緩ませ手元にあった端末を差し出してきた。

「これの意味、分かるよな」

 紗也は画面を見て呼吸が止まった。再び胸が動きだした時紗也は全身に別の力が高まりだしたのを感じていた。

「朋然ノ巫女様、お役目の刻限は二日後でございます」

「……わかった」

 畏まる鉄平に向けて笑いかける。

 ――間に合った。かねてから求めていたものが、手に、入った。

「安心して。ちゃんと最後までやり遂げるから」

「紗也」

「それが私の生まれた理由でしょ」

 顔に熱がこもっていく。高鳴る胸の鼓動に乗って櫓の梯子にもう一度乗った。木々の頭越しには自分が愛する景色が広がっている。緑の山に抱かれた小さくも豊かな営みの郷。

 集落内では各々に与えられた役割をまっとうするのが当たり前。自分の役目を果たすことはそれだけで存在の証明になる。

 これが私の役目。すべては皆の平和のために。

「私はここで死ねるんだね」

 二日後の祭り。それは人々が村を旅立つ門出の祭り。我等を包んでくれた自然に対する感謝の祭り。感謝の証に差し出す供物は皆の宝でなくてはならない。人々にとって大切な存在。それが自分だ。

「自然とともに還らんことを」

 鉄平が優しい顔をしてくれた。しかしどこか寂しげでいつもの首飾りを差し出している。そんな鉄平を見て紗也は胸のあたりにキュッとしたものを感じた。それを表に出さない代わりに笑顔を返す。

「鉄平、一緒に帰ろう?」

 受け取った紗也は、彼の手を引いた。

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