ログ:赤い双眸(4)
庵の戸口に、モトリが来ていた。寝ぼけまなこを擦りながら見た老女は目を合わせると昨夜と同じ舐めるような目つきで笑い挨拶をした。
「ぐっすり眠れましたかえ? お嬢さんは少々お疲れかしらねえ」
「ああ、彼女なら大丈夫ですよ。おかげで気持ちのいい朝です」
そりゃえがったと沼地の生物のように引きつった笑い声をしながら続けて外を手で示した。
「朝の膳を調えてますから、屋敷までお越しなさぇ」
きつい抑揚でおおよそそんな事を言ったと思われるモトリはもう一度上目で此方を見て庵を離れた。
「うなされていたね。また夢を見たのか」
「……えぇ」
水瓶から注いだ水をゲイツが差し出してくれた。受け取った
「ゲイツ」
「ん?」
そっとその胸に手を当てる。
「……な、何してるんだい」
温かい。心臓の鼓動。たしやかに、命の脈動が規律正しくゲイツの中で鳴っていた。
「生きてる」
手のひらに感じるゲイツの命。間違いなく現実の彼は生きているのだ。その事実を確認するだけでエリサの心に言いようのない安心が満ち満ちてくる。すると……頭に何か添えられた。ゲイツの右手だった。
「まだ死ぬ予定はないから、安心しな」
無言でうなずく。彼の微笑が心地よい。ポンポン。ゲイツは、軽いリズムで頭上を叩くと、
「行こうぜ、朝飯が待ってる」
大あくびをこきながら言った。
ゲイツと共に庵を出た。雲こそあるが空は晴れ間が見えている。山奥の朝は冷えると聞くがなるほど陽で温まらぬうちは涼しさが地上に降りたままだ。その陽光は稜線の向こうで柔らかく焼けている。山肌に霞が貼りつき透き通る空気の充満している様が営みだす前の田園風景に幻想的な情緒を醸していた。
そこらで摘み取った草の茎を噛みながらゲイツが尋ねてきた。
「やっぱりいつもより元気がないな、どうしたんだい」
別段気にしているつもりはないが彼にはそう映ったらしい。夢の中の出来事を告げる。
「腹から、機械の腕が生えてた」
「エリサの?」
「ゲイツの」
「そこからだけは勘弁願いたいな」
用意された朝餉は相変わらず菜食が膳を占めている。
向かいに座るゲイツが目を見張った。
「ほおこれは」
感嘆の声を漏らしめたのは椀に盛られた白く艶のある蒸し穀物だ。
「
穀物は生育の特性上高級品として扱われ一般に流通していない。王都城下のマーケットで珍品として並んでいたのをエリサは見たことがある。モトリが言う。
「ここではコメと呼んどりますえ」
土地によって物の呼び名が変わるのはさして特殊な事例ではない。早速口に運ぶ。噛んでみると弾力というよりは奇妙な粘り気があり味はかすかに甘みを感じる程度。高級珍品の名の通り、確かに珍しい食感だった。
給仕した老婆に対してなるだけ慇懃に礼を告げる。振る舞われた食事には感謝と賛辞を贈るのがコミュニケーションをつつがなくする秘訣だとゲイツから教わっている。当の本人は、
格子越しに雲の裂け目は青々としている。朝の冷たく湿潤した風に混じり、温みを含んだ風も入ってくるがこれは山地特有の季節気流だ。雨は止んでいるしすぐにでも村を発てるだろう。食事を終えそう考えていた折、屋敷の戸口に村人の男が訪れた。屋敷の主たる紗也は現れずモトリが応対に出た。話が聞こえてきたので聞き耳を立てる。
「昨日の雨で水路の堰が切れそうだ、大川の水があふれかけてる」
大川とはおそらくアオキ村を縦に割って流れている川の事だろう。澄んだ水の通う清流で昨日屋敷への道中で見かけた。
「まだ持ちこたえてるが、今日か明日にでも降られたら決壊する。村のみんなで補修するから、紗也様に許しをもらって欲しい」
「巫女様はただいま空読に出られておいでです。よろしくお取次ぎましょう」
「ん、急いでくれ」
男の去った気配がした。モトリが部屋に戻ってくる。
「どうせ捨てる土地なのにねえ」
老女はのそりと腰を下ろし、水呑に茶を淹れながら吐き捨てるように呟いた。
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