第35話 運命~子どもを授かるということ ホーセズネック

 子どもが欲しい病から立ち直り、仕事もプライベートも順調な玲美だった。

「何だか顔色が悪いけれど、どこか悪いの?」

「えっ、そんなことはないわよ」

 玲美は実家に帰り姉の二人の子どもたちと遊んでいたのだが、慣れない子どもの世話で少し疲れが顔に出てしまったようだった。

「子どもの世話がどんなに大変だか、よくわかったでしょう」

 姉の言葉に頷く玲美だった。

「お姉ちゃんの大変さがよくわかりました」

 遊び疲れた子どもたちがお昼寝を始めると、大人たちも一息つけた。

「寝顔はかわいいのだけれどね」

 姉は深刻そうな表情をしていた。

「子どもが欲しいって思っていたのだけれど、現実はやっぱり大変よね。私には無理だわ」

 姉は黙ったままだった。母親は買い物に出かけていた。姉妹でゆっくり会話ができるのは久しぶりのことだった。

「病気があるのよ」

「えっ、何を言っているの?」

「お兄ちゃんの方に遺伝性の病気があることがわかったの」

「そんな、私にはわからなかったわ・・・」

「私だって気付けなかった。これから成長していくにつれ、症状が出てくるって言われたわ」

 玲美にはかける言葉がなかった。

「まあ、でも、くよくよしていていも何も始まらないから」

「お姉ちゃん・・・」

 玲美の目から涙が流れる。

「玲美が泣くことないわよ。まあ、私もお母さんの前で散々泣いてしまったけれど。これからは、子どもたちの前では私が笑顔でいないとね」

「でも・・・」

「あなたにも迷惑をかけることがあるかもしれないけれど・・・」

「何言っているのよ、私もできるかぎりのことはするから・・・」

「ありがとう。あなたも気を付けてね」

「どうして?」

「母系遺伝らしいの。お母さんの親戚にもいたらしくてね。だからって心配し過ぎてはだめよ。まだまだわからないことも多いらしいし」

 そんなことを言われても、一度知ってしまった事実を忘れることはできなかった。玲美は子どもが欲しい病に侵されていた時、子どもは元気で普通に生まれてくることだけを夢想していた。自分の子どもが病気や障害を持って生まれてくるなんて、微塵も考えたことがなかった。でも、現実にはそういった子どもたちがいる。そんな当たり前のことすら想像できない自分に腹が立っていた。

 

 バー『タイムトラベル』のドアを開けると、バーテンダーの真治が笑顔で迎えてくれた。

「クラフトビールです」

 冷えたグラスが手に心地よい。自分への怒りが少しだけおさまるのを感じていた。

「子どもか・・・」

「子どもがどうしましたか?」

「あっ、すみません。子どもって五体満足で生まれるとは限らないですよね」

「大人になってから病気をしたり事故に遭ったりして、いわゆる完全な状態ではなくなることもありますし、私なんて身体は女性で生まれましたが心は男性ですからね。それだって五体満足とは言えないですし、そもそも五体満足って何なのだって話ですよね」

「本当にそうですね。自分の子どもは完璧であるはずだ、なんて所詮は勝手な親のエゴですね」

「どんな状況で生まれたとしても、授かった命を大切にする、それだけですから」

「授かった命を大切にする・・・」

 真治の言葉を玲美は考えていた。

「自分の人生から逃げて子どもが欲しいと切実に思い込んでしまっていました。でもそれって完璧な子どもが前提条件だったのです」

「親ならそれを望むのは当然ですよ」

「姉の子に病気があることがわかって私は絶望してしまいました。最低ですよね」

「目の前の事実にびっくりしてしまっただけではないですか?まだ、絶望したわけではない」

「絶望って言葉を簡単に口に出してはいけませんね」

「はい、本当に絶望している人はそれを口にすることすらできないのでは・・・」

「そうですよね。何だか勝手にあれこれ考えてしまって、意味ないですね。姉は何だか以前より明るく逞しくなっていました」

「お母さんはすごいですよね」

「私には無理だと思いました。実は姉から出生前診断の話を聞いて、ドキッとしました」

「病気や身体に不自由がある子を排除しようとする動きがありますからね」

「私が望めば子どもを選ぶことができるという・・・」

 真治もしばらく黙ってしまった。

「子どもを授かるというのは神の領域だったはずなのに、人がコントロールできるようになっていく・・・でも、人はそれまでも神の領域を侵して快適さを手に入れてきているのだから・・・難しい問題ですね」

 真治の言葉は玲美の心を一層重くしていた。

「私は男性になる手術をしていません」

 玲美は真治をまっすぐに見つめた。

「それで苦しくはなかったのですか?身体が女性で心が男性だと辛いこともあるって聞いたことがありますが」

「女性で男性になりたいという人の中には、自分の女性的身体を嫌ってしまう場合もあると聞きますが、私の場合はもともと女性的身体でもないですし、どちらかというと女性的身のこなしだとか服装への違和感があるだけなので」

「神の領域を侵さなかったのですね」

「そうですね。与えられた身体で生きていく覚悟を決めた瞬間はあります。手術をしてしまった方が、戸籍も変えられますし良かったのかもしれないと悩むことも未だにあります。私のパートナーであるこの店のママは手術をして戸籍も女性に変えています。やっと自分になれたと言っていますからね」

「神の領域ってそもそも何なのでしょうね」

「すみません。余計な話でした」

「いいえ、私もちゃんと考えないと、子どもを授かるということがどういうことなのか、私自身の人生はどうしていきたいのか」

「だったらこれを飲んで、未来の自分に会ってきたらどうですか?」

 玲美は琥珀色のレモン一個分の皮が入ったタンブラーグラスを渡される。

「ホーセズネックというカクテルです」

 一口飲むと玲美の心は一瞬真っ白になるのだった。

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