第34話 アイデンティティとは

 18歳の康太は大学での生活を大いに楽しんでいた。そこそこの大学に通い、将来はそこそこの企業に就職をし、普通に結婚をして子どもを授かり、両親のような穏やかで慎ましい家庭を築くのだろうと、漠然と考えていた。

 高校時代はサッカー部に所属していたのだが、大学ではテニスサークルに入った。男子校だったため家族以外の女性との接し方が全く分からなかったので、少しは女性との付き合いを増やそうと考えた末のことではあった。


「康太君一緒に帰ろう」

 テニスサークルの飲み会が終わり幹事の康太が支払いなどを済ませ最後に店を出ると、爽やかな笑顔で久美が近づいてきた。

「おおう、帰ろうか」

 他の人たちは次のカラオケ店に向かっていた。

「カラオケは行かないの?」

「康太君が行かないのなら行きたくないから」

 康太はカラオケが苦手であったため、行かないことが多かった。

「俺のことなんか気にしないでいいのに」

「だって・・・」

 康太は不思議そうに久美を見た。

「ねえ、私の気持ちわかっていないの?」

「気持ちって?」

 どこまでも鈍感な康太だった。

 康太はテニスサークルに入り女性の友だちも沢山できた。姉と妹がいるせいか女性との会話がむしろ得意な方だと知ることになる。先輩からも慕われ、何でも相談されるまでになっていた。だが、それは恋愛感情からはほど遠いものだった。

 久美は康太より一つ上の先輩で美人の上にスタイルもよく、テニスサークルでのマドンナ的存在だった。

「ねえ、康太君って女の子に興味が無いの?」

「そんなことはないけれど・・・」

「好きな子はいないの?」

「そうだな、あまりよく考えたことがなかった。だって好きになるのって自然にそういう気持ちになるものじゃないの?」

「そうだけれど・・・。じゃあ、どんな女の子がタイプなの?」

「女の子のタイプか・・・。それも考えたことが無いかも」

「ええー、それって本当かしら」

「本当だよ」

「本当だったらちょっとキモイかも」

「キモイ?」

「だって、男の子ならタイプの女の子とかいるのが当り前じゃない。何だか普通じゃないみたい」

 久美とは駅で別れた。康太は久美の言葉の意味を考えていた。確かに自分は周りにいる男子たちが女の子の話をしていても会話に加わることはしてこなかった。加わらなくても問題にもならなかったし、女の子の話をしなくても不思議がられたことはなかった。ただ、友だちからは「康太はむっつりスケベだから」と言われ、それが定着していたようだった。女の子の話を口に出さなくても、頭の中では女の子のことで一杯なのが男子というものだという思い込みのおかげで、康太は奇異な目で見られたことはない。だが、女子を恋愛対象として見ることができない、というのが康太の本心であった。


 就職は思っていたよりとても苦戦を強いられた。そこそこの企業どころか入社した会社は思い返せばブラック企業と呼べるレベルのところだった。日に日に自尊心はズタズタになり思考回路も破壊され、虚ろな目をして満員電車に揺られるのがやっとだった頃、テニスサークルの集まりがあり康太は顔を出した。OBも参加する大きな集まりであったため、それほど気負いもなく挨拶を交わすだけで、康太は騒いでいるメンバーを遠巻きに眺めていた。すると、康太より数年先輩だという男性が声をかけてきた。その男性は都内でIT系の会社を小さいながら経営しているという。

「ここ出る?いい店を知っているからそこに行こう。奢るよ」

 その男性に誘われ、康太は迷いもなくついて行った。仕事への不満や女性に興味が持てないことなど、その男性には何でも話ができた。会う回数も増え、いつしかその男性のマンションで一緒に暮らすまでになっていた。


 ハッと目を覚ますと、ミツヨから冷たい水を手渡された。グッと飲み干すとあの頃の思いが蘇ってくる。

「まだ就職したての頃、大好きな人がいたのです」

「素敵な人だったね」

「今考えると、ちょっとキザで悪ぶっていて、でもハンサムでスマートな身のこなしの人でした」

「何だか、若い女の子にモテそうなタイプだわね」

「アハハハ、そうですね。自分のことを大切にしてくれる人でした」

「どうして別れてしまったの?」

「二人して違法薬物で捕まってしまったのが一番の原因ですが、その前から何となく別れるだろうなと予感はありました」

「パーティーに誘ってきたのが彼だったね」

「はい、ちょっと派手なパーティーとかも大好きな人で、金銭感覚も自分とはちょっと違っていて、それが別れた原因だったと思います」

「それでも、大切にされていたから愛を感じていたわけよね」

「はい、彼と別れてすぐは誰とも付き合うことはできませんでした。色々とありましたが、大好きだったですからね」

「それがあったから、今のパートナーさんとも出会えて、新しい愛を育むことができるのね」

「本当にそうです。長い年月はかかってしまいましたが、人を愛する素晴らしさを彼は教えてくれました」

「それに尽きるわね」

 康太はしばらく黙っていた。涙が自然と頬をつたう。

「今の彼も病気なのに人のことばかり気にしてくれています。自分がもっとしっかりしないといけないのに、我ながら情けない」

「愚痴を言ったり弱音を吐いたりって、決して情けないことではないはずよ。現に逃げてはいないのだから。周囲に告白をしたことで助けてくれる仲間もいるのだから、もっと人に甘えながら頑張ればいいじゃない」

「ありがとうございます。勇気が出てきました」

 康太は涙を拭いて立ち上がった。ドアを開けると外は土砂降りの雨だった。ミツヨから傘を借りて外に出ると、土砂降りの雨がちっとも嫌ではなかった。少しだけ心が強くなっている自分を感じて嬉しなる康太だった。

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