第31話 私を射止めて ワインクーラー

「ああ~」

 麻里奈は大きなため息をはいた。

「アイドルと結婚できるとでも思っていたの?」

 春菜が呆れた顔で言った。

「いえ、その・・・」

 麻里奈は完全に否定することはできなかった。

「えっ、なになに、麻里奈さんってそういう人だったのか」

 アルバイトの忠司が笑いながら言ってきたので、麻里奈はむくれた顔を忠司に向ける。

 閉店後のカフェで後片付けに身が入らない麻里奈だった。自分の心がこんなにも動揺していることに我ながら呆れてもいた。

「試作品が出来上がりました」

「わあ、美味しそう」

 何も知らない康太の笑顔に、救われる麻里奈だった。


「あのアイドルの結婚、かなり話題になっていますね」

 試作品を食べながら忠司が話を蒸し返す。麻里奈が渋い顔をしているのもお構いなしだった。

「そうね。アイドルに全く関心のない私だってちょっと興味があったもの」

「アイドルの結婚がそんなに話題になるのですか?」

 康太は不思議そうな顔をしている。

「ここにそのアイドルの結婚で意気消沈している人がいますからね」

「麻里奈さんってそういう人だったのですか」

「康太さんも俺と同じこと言った」

「そういう人ってどういう人よ」

 麻里奈が不機嫌になればなるほど、周りの皆は楽しそうだった。

「現実の男より手に届かない男ばかりを追いかける、夢見る夢子ちゃんってところかな」

 今の忠司には遠慮というものは無かった。

「何それ」

「でもそれって事実じゃない?」

 いつもは味方をしてくれる春菜も今は敵側に回っていた。

「春菜さんまで・・・」

「ごめん、ごめん、麻里奈ちゃんの趣味を否定するつもりはないけれど、他人を応援するのってどうなのかなって思ってね」

「他人を応援する・・・」

「そう、テレビに出ている人を好きになることは、私だってあるわよ」

「誰ですか?」

「そうね、好きにはなるけれど、その場その場で変わるから好きな人は沢山いるわね」

「そうですよね。この俳優さん好きだって思うことと、人生をかけて応援することってちょっと違うかな」

 忠司の言葉に麻里奈はハッとさせられた。

「人生をかけて・・・」

「そうなのよ。麻里奈ちゃんがアイドルの追っかけをするのを見てきたけれど、プライベートを全てそれに費やしているじゃない。まさしく人生をかけているって感じで。だからそれがちょっと心配かな」

 確かに麻里奈はプライベートの全ての時間とお金をそのアイドルに費やしてきた。

「どこに魅力があるのですか?」

 康太は春菜と忠司よりは理解を示そうと努力しているように見えた。

「そうですね、カッコよくって、優しくって、踊りも歌も上手で・・・」

「それって疑似恋愛に近いのかもしれないわね」

「疑似恋愛だなんて・・・」

 腑に落ちていないのは麻里奈だけで春菜の言葉に他の二人も納得をしているようだった。

「疑似恋愛って悪いことばかりではないのよ。気持ちも明るくなれるし、仕事だって頑張れるだろうし」

「はい、その通りです」

「ただね、プライベートを捧げてしまうことや、今みたいにアイドルの結婚で落ち込むなんてことがあると、それはちょっと依存症の部類かなって思ってしまうのよ」


 麻里奈は一人になると何とも言えない恐怖が押し寄せてきた。春菜の依存症という言葉が頭の中から消せない。自分で自分を持て余してしまう感覚におそわれ、急いで家路についていたはずなのに足は繁華街へと向かってしまうのであった。


 気が付くとバー『タイムトラベル』の前に来ていた。迷わずにドアを開けると爽やかな笑顔のバーテンダーに迎えられた。

「最初の一杯はビールを飲んでいただくのがこの店のルールになっています」

 出されたクラフトビールのほろ苦さに少しだけ心が落ち着いてくる。


「アイドルの追っかけってそんなに悪いことですか?」

 初めて会ったはずのバーテンダーの真治に仕事仲間には聞けなかったことをぶつけていた。

「そうですね。悪いことではないと思います。ただ、アイドルとファンって、どこか共犯関係みたいなものですからね」

「共犯関係?」

「そうです。アイドルは騙すことに心血を注いでいて、ファンは本気で騙されているから共犯関係が成立しているわけです」

「共犯か、だからアイドルが結婚したりしてしまうとその関係が壊れるからファンは怒り心頭になる」

「お願いだから騙し続けてくれってことですよね」

「そんなこと、よく考えたら無理があるのは百も承知ですが、周りの人たちから疑似恋愛だの依存症だの言われてしまい、傷ついた心に塩を塗られた気分です」

「疑似恋愛ってことは本当の恋愛から逃げているってことですよね」

 真治の言葉に麻里奈は胸を押さえる。

「ここにグサッときました」

 真治は苦笑いをした。

「どうして恋愛から逃げてしまうのか、ちゃんと考えたことはありますか?」

「ないかもしれない・・・」

「新たな出会いが怖いとか、誰かと親密になることに抵抗があるとか・・・」

「まさしくそれです。今の仕事仲間の人たちといると、安心できてとても楽なのですが、新たな出会いとなるとちょっと抵抗があります」

「お客様との出会いはそれとはちょっと違うわけですよね」

「はい、色々なお客様と日々出会っていますが、それは仕事であってそれほど深い関係にならなくてもよいから、できていることだと思います」

「誰かと深い関係になるのが怖いってことですね」

「はい・・・」

 麻里奈は考え込んでしまった。

「だったらこれ飲んで、どういう人と出会いたいのか、理想とする彼氏に会ってきたらどうですか?」

 ワインクーラーの鮮やかな色に心が躍り出しそうになる。一口含むと心地よい甘さが広がり新たな夢の始まりへと誘ってくれるのであった。

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