第30話 ピアノの思い出
公団住宅に引っ越してから、有紀の母は塞ぎがちになっていた。
「ママ、体操着どこ?」
「えっ、どこだったかしら」
「もう、ちゃんとしてよ」
「有紀はもう中学生なのだから、自分の物は自分で管理をしなさい」
父親から指摘をされてむくれる有紀だった。
「だって、ママが・・・」
自分の心が苛立っていることに、有紀自身も気がついてはいたのだが、それを認めたくはなかった。
以前住んでいた町から離れ、父親は心機一転、頑張って働き始めた。だが、世間の風はやはり冷たく、得られる給料は家族三人がやっと食べていける程度だった。
有紀は私立の小学校に通っていたのだが、中学校は公立に行くことになった。三学期の途中で父親の会社が倒産し、春休みに引っ越しをしたので、前の学校の友だちとはちゃんと別れを告げる間もなかった。むしろそれは有紀としては良かったと思っている。友だちに合わせる顔もなかったし、何をどう言えばいいのかさえわからなかったからだ。
公団住宅の薄汚れた壁を見ていたら、有紀の目からふいに涙が流れてきた。自分の部屋として与えられたのは和室の四畳半でベッドはなかった。勿論ピアノもない。あんなに毎日練習を重ね、頑張ってきたピアノを取り上げられ、有紀は絶望感で胸が張り裂けそうになっていた。
幼稚園に通い出して間もなく、有紀は母親に連れられてクラシックバレエ教室に見学に行った。
「素敵ね。有紀ちゃんも習ってみたくなった?」
母親にどんなに勧められても有紀の心は動かなかったのだが、気が付いたら教室に通うようになっていた。そのバレエ教室にはピアノが置いてあり、有紀はそのピアノに興味を持った。そのことを母に話すとすぐにピアノ教室に通うことになった。バレエ教室との両立を母は求めてきたが、有紀はきっぱり嫌だと言った。それで母も諦めてくれた。
ピアノが家に運ばれてきたときのことを、今でも鮮明に覚えている。リビングに置かれたアップライトピアノは黒く光っていてとても美しかった。嬉しくて大はしゃぎをしてソファを飛び跳ねた。有紀はピアノを磨くのも大好きで、専用のワックスで磨き上げたピアノを眺めては、自己満足に浸っていた。
「本当に有紀はピアノが大好きなのだな」
「うん、有紀は将来絶対にピアニストになるの」
そう言って父親に宣言したことを思い出す。
有紀の通った中学校では毎年クラス対抗の合唱コンクールが開かれていた。楽曲の選定を終えると次は指揮者と伴奏者を決めることになった。指揮者は学級委員長の男の子が満場一致で選ばれた。
「それでは次は伴奏者ね。ピアノが弾ける人は誰かしら」
担任の女性教師がクラスの皆を見渡した。以前の有紀であれば迷わず挙手をするところであったが、今はもう、それはできなかった。家にピアノがないことには練習ができないのだから諦めるしかなかった。
伴奏者に選ばれた子はこの町では有名な会社の社長の娘だった。皆の前で曲を披露したのだが、有紀が小学生の低学年の頃に弾いていた曲だった。有紀は無性に悔しかった。
ある日、母親が電話で誰かと話をしていた。その電話を切ると途端に不機嫌になった。
「ママ、誰から?」
「ママのお友だちが家に遊びに来たいって言っていてね」
「楽しみだね」
「でも、断ったわよ。こんな家に誰も招待できないわ」
それ以来、母は外出も減り誰とも交流をしなくなっていった。
目が覚めて冷たい水を飲んでも、有紀はしばらく呆然としていた。
「大丈夫?」
「はい、すみません。何だか母親のことが責められないなって思って」
「あなたも辛かったのでしょうけれど、お母さんだって大変だったわね」
「そう思います。そう言えば母はクラシック音楽のテレビ番組が好きだったはずなのですが、引っ越しをしてからは見なくなっていました。もしかしたら私より辛かったのかも・・・」
「あなたはどうやって克服したの?」
「ピアノは諦めて勉強を頑張りました。何とかトップの公立高校に入学がしたくて。でも、それも大変でした。後から気が付いたのですが進学校の公立高校って親の収入のレベルもそれなりに高くて」
「そうなの?」
「はい、塾にも行かずに合格できたのって、私くらいだったのです」
「お金をかけて勉強した人が入る高校だったのね」
「そう言えますね。だけれど、友だちはいい人ばかりでしたし、先生たちも私のことを気にかけてくれました。看護師になれたのも皆さんのおかげです」
「そう。人に感謝できるのって素敵なことよ」
「それなのに今になって、実家がとっても嫌になってしまって」
「何かあったの?」
「はい、私の結婚式に出席するために、母は着物を作りました。そのお金は結局私がローンを組むことになって」
「紋付の黒留袖ね」
「はい、もう二度と着ることが無いのに、それも義母と張り合って高いものを選んで」
「あなたのためじゃないの?」
「私のため?」
「そうよ、着物ってわかる人にはわかってしまうから」
「そう言えば、義母は私の母の着物をとっても褒めていました」
「他には贅沢しないのでしょう?」
「はい、自分のことより私のことを優先してくれていました」
「確かに黒留袖は他に着る機会はないかもしれないけれど、家紋は変えられるはずだから、あなたにあげるつもりなのよ」
「私に?」
「そう、今はまだ早いかもしれないけれど、いずれ必要になる時のためにね」
「私の方なのかもしれません。婚家に引け目を感じていじけていたのは」
斗真から電話があり、迎えに来てくれることになった。
「早かったわね。もういいの?」
「ああ、早くから飲んでいたみたいでさ、もう皆出来上がっていたから、とっとと退散してきたよ。何だか有紀の顔が明るくなったみたいだ」
「そうね。もう大丈夫。卑屈にならないで頑張るわ」
「そうだよ。誰も有紀の実家のことをとやかく言わないし、俺が言わせないから」
「頼もしいわね」
ママに揶揄われて、斗真は照れた。有紀はそんな斗真の頬にキスをした。
「あら、ご馳走様」
有紀はママへも投げキッスをしていた。
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