第29話 婚家と実家の格差問題
気が重かった結婚式も何とか無事に終わり、有紀は斗真との結婚生活を楽しめるまでになっていた。だが、見栄を張りたがる実母に振り回された記憶が蘇ってきて、心が晴れない時があった。
「有紀、お袋が呼んでいるぞ」
斗真が有紀のいる診療室を覗いてきた。
「はあい」
他の看護師たちが帰った後、一人残っていた有紀は病院の裏にある斗真の実家に向かった。
「有紀ちゃん、お仕事ご苦労さま。夕飯の前にちょっと見てもらいたいものがあって」
斗真の母とは実家の母より何かと気が合った。それが嬉しくもあったのだが、複雑な思いが有紀にはあった。
「この着物、有紀ちゃんに似合いそうだと思って。私が若い頃に着ていたものだけれども、どうかしら」
日本間の畳に広げられた着物に有紀は思わずため息が出る。
「とっても素敵ですね」
「気に入って貰えれば、嬉しいわ」
「でも、着る機会が・・・」
「だったら今度、お茶会に一緒に行きましょうよ」
「お茶会ですか?やったことがありません」
「じゃあ、教えるわよ」
有紀は曖昧な返事をしていた。興味が無いわけではないのだが、自分には不釣り合いだと、どうしても思ってしまうのだった。
リビングでは斗真の妹の風香がピアノを弾いていた。風香は子どもの頃からピアノが好きで、暇を見つけては弾いている。ピアニストを目指さないのかと聞かれても、あくまでも趣味と言い切っていた。有紀はピアノを弾く風香の姿をジッと見ていた。
「ごめんなさい。うるさかった?」
風香が気付いて有紀に言った。
「そうじゃないの。凄いなって思って」
「好き勝手に弾いているだけだから。これはあくまでも趣味というか息抜きかな」
「羨ましいわ」
「有紀さんも弾いてみる?」
「いいえ、私は無理よ。昔、ちょっとだけピアノを習っていたこともあったのだけれど、もう弾けなくて」
「だったら、教えるから、弾いてみたら?」
「今更もう遅いわよ」
「そんなことないわよ。ママだって最近になって習い始めたのだから」
「そうなのですか?」
そこに夕食の準備をしていた義母が顔を出す。
「そうよ、今楽しくてしかたないの。一緒に習いに行く?」
「そうね。私は教え方が下手くそだから、その方がいいわよ」
有紀は、この家に嫁いでから、心が躍る出来事ばかりに遭遇していた。あまりにも実家との違いに初めの頃は無邪気に喜んでいられたのであるが、今はもうそうではなかった。
明日は病院が休みだったので、斗真と二人で繁華街をブラブラと歩いた。
「ちょっとだけ、飲んで帰るか」
「いいわね」
二人は自然とバー『タイムトラベル』のドアを開けた。カウンターには前回とは違って、大柄な女性が立っていた。
「最初の一杯はビールを飲んでいただくのがこの店のルールになっています」
出されたクラフトビールを飲むと、フルーツの香りが口いっぱいに広がった。
「最近ちょっと元気がないけれど・・・」
斗真は恐る恐る聞いてきた。
「ごめんなさい。ちょっと実家のことで・・・」
有紀も言い出し難そうだった。
「思っていることや心配事は、誰かに伝えないと駄目よ。頭の中にゴミが溜まってしまうからね」
ママのミツヨも親身になって言ってくれる。
「ゴミですか?」
「そうよ、ゴミ。頭の中にゴミを溜めてしまうからおかしくなってしまうのよ」
「そうだよ。ちゃんと言ってみろよ」
自分のことではないことがわかると、斗真は張りきり出していた。
「私の母親、とっても見栄っ張りでね」
「そうは見えないけど」
「斗真が実家に来ることになった時なんて、大変だったのだから」
「どうして?」
「公団住宅に住んでいることが、今でも許せないのよ」
「許せないって?」
「うん、父親が事業に失敗をする前は、庭付きの大きな家に住んでいたから」
「そうだったのか」
「そう、奨学金の話をしたわよね」
「ああ、まだ少し残っているのだよね」
「少しどころではないのよ」
「だって、前の病院で働いて少しは返せたはずじゃあ・・・」
「そうね、私の学費の分だけであればそうなのだけれど・・・」
「ご両親が必要なお金があったのね」
ミツヨはしんみりと言った。
「はい、奨学金ではなくて、ただの借金ですね」
「でもお義父さんはちゃんと働いているだろう」
「足りないのよ、それだけだと」
「あなたのお母さんが使ってしまったのね」
「そうなのです」
「借金はさ、二人で返していけばいいじゃないか」
「ありがとう。今までの分は私だけでも何とかなるから大丈夫なのだけれど・・・」
「これからのことが心配なのね」
「はい、母は私の婚家がお金持ちなのを知ってから、ちょっと様子がおかしくなってしまって・・・」
斗真の携帯電話が鳴る。
「ごめん、忠司からだ」
斗真は電話に出るために店の外に出たがすぐに戻ってきた。
「呼び出されたのでしょう」
有紀は笑って言った。
「同級生たちが集まっているらしくって・・・」
「私は大丈夫よ。むしろここでママに話を聞いてもらうから、あなたは行ってちょうだい」
「でも・・・」
「女同士の方がねえ・・・」
ママが意味深な笑みを浮かべて言った。
「そうよ、私の心の整理が付いたら、ちゃんと話をするから。今はそっとして欲しいの」
「わかった。じゃあ行くね。俺もそんなに遅くはならないから」
「うん、気を付けて」
斗真が出ていくと、有紀は少しだけホッとしたような表情をしていた。
「ご主人には言いたくなかったのかしら」
「どうなのでしょうか。よくわからなくて・・・」
「あなた自身が、見栄を張っているのではないかしら?」
「そうは思いたくはないのですが・・・」
「だったらこれを飲んで過去のあなたに会ってくればいいわ」
有紀はママが出してくれたウイスキーを味わうように口に入れた。
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