第16話 天空のアバンチュール

 円花はシンガポールのホテルの最上階にあるプールで、シンガポールスリングを飲んでいた。晴れ渡る青空が広がり、身も心も解き放たれた気分に浸っていた。このまま鳥になって空を自由に飛べるような気さえしてくる。

「マダム#$%&・・・」

 プールにいる給仕の女性に英語で話しかけられたのだが、マダム、という言葉しか聞き取れなかった。

「もう一杯飲む?」

 友哉に言われ、お代わりをお願いした。

「どう、この景色」

「最高よ。現実を忘れられるわ」

「息子さんのこと?」

 巧は今、反抗期に突入してしまったのか、特に母親の円花を避けるようにしていた。今回も巧を連れて来ようとしていたのだが、巧にはあっさりと断られた。

「でも、今は忘れないとね」

「その水着とっても似合っているよ」

 着替えの服さえ持ってこなかった円花は、シンガポールへ来てから友哉と一緒にショッピングをした。値札を気にせず、若い子の着るような服であるとか、派手すぎると目立ってしまう、なんてことを全く無視しての買い物は、円花には新鮮で刺激的で何より嬉しいばかりであった。

「こんな派手な色使いの水着なんて人生初よ」

「円花にはこういった色使いが似合うと前から思っていたよ」

 この世の中に自分に似合う服があるかどうかなんて、考えたこともない円花だった。それまでは、妻として年相応で、とか、母親として周りの人から浮かないように、なんて基準でしか服装を選んではこなかった自分に愕然としていた。


 夜は友哉がよく行くというクラーク・キーにある川沿いのレストランに連れて行ってもらった。近くの店からは生ライブの演奏が賑やかに聞こえてくる。川から流れてくる夜風が心地よく、屋根しかないオープンな店内は意外にも落ち着いていて、ストリートを歩く人混みの喧騒が嘘のようだった。

「俺、この場所が好きでね。シンガポールが国際都市だってわかるでしょう。様々な人種や国籍の人たちが集まっている。日本が悪いって言っているのではないのだけれど、ここにいると自由でいいのだって思えてくる。日本にいると型にはめられてしまうようで居心地が悪くてさ」

 友哉の言葉に黙って頷くことしかできない円花だった。

「日本って同調圧力ばかりが強くて、忖度なんて言葉も流行ったりして、特にサラリーマンなんて会社の奴隷みたいじゃない。俺から言わせるとバカみたいだなって思うよ」

 友哉の言葉は至極ごもっともなのだが、どうにも受け入れられなくなってくる。

「なんで日本のサラリーマンって皆同じ格好しているの?もっとオシャレを楽しまなきゃ損だよね」

 高級腕時計を見せつけるように円花の眼前で大きなジェスチャーを繰り返す友哉に、最初はウットリしていた円花であったが、天空から地上に降りてきてからは、少しずつ冷静さを取り戻していた。友哉のお洒落な服装もスタイリッシュな生活にも縁遠い豊のことが頭を過る。不器用で仕事、それも与えられた事しかできない性格で、朴訥で気が利かない豊が懐かしくなってくる。仕事のことや自分が考えていることすら、上手に話すことができない豊の横顔が愛おしく思えてきた。世界情勢やら日本の置かれている危機的状況を途切れなく捲し立てている友哉の存在が、どんどん遠くになっていった。


 ハッと目を覚ますと、バーテンダーの真治が穏やかに笑っていた。差し出された水を一気に飲み干した。友哉の顔が円花の心から消えていた。

「似合う服って何なのかしら」

「似合う服ですか?」

 円花の質問に真治は首をかしげる。

「そう、似合う服」

「そうですね。私は似合う、似合わないというより、着たい服という発想しかないかな」

「着たい服?」

「はい、中学生の頃は制服のセーラー服を着るのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。母親は似合っているから大丈夫だよ、と言ってくれるのですが、それが更に嫌悪感になってしまって・・・」

「似合っているって誉め言葉ではないのよね」

「そうなのかもしれませんね。嬉しい時もあるはずですが、そうでない時もある」

「私は今まで妻としてや母として相応しい格好を心がけていたの。だって、他に選択肢はないって思い込んでいたから。でもね、それで良かったのだなって思うのよね」

「僕もそう思います。だってそれが着たい服だったのでしょうから。着たい服をきている時が一番魅力的ではないですか?」

「そうかもね。今日着てきたスーツがどうにも着心地が悪くてね。何だか私らしくないというか・・・」

「服って不思議ですよね。僕は高校生の時、制服のない都立の学校に通っていました。制服が無いってだけで選んだ学校です。そこで男の子と同じ服装で通うことができたのですが、その時の解放感というか自分らしさを手に入れたという思いを忘れることができません。たかが服装なのに」

「たかが服装、されど服装なのかも」

「はい、似合う服装より着たい服装」

「私はジーパンにチュニックといったおばさんスタイルが着たい服かな」

「それだってとっても魅力的です。だってその服装で自分のやりたいことを思う存分やっている姿って素敵じゃないですか」

「今、息子が反抗期でね。それと闘うためには、こんなスーツを着てカッコつけてはいられないわ」

「闘うことはないと思いますよ。信じて見守ることを基本として、寄り添って通り過ぎるのを待つことではないですかね。駄目な事は駄目と叱ることも大事ですし、愛情表現も鬱陶しがられてもしてあげないとね」

「そうね。何だか子育ても刺激的よね」

「はい、我が家の女子高生も反抗期の時は大変でしたよ。まあ、今でも口喧嘩は絶えないですが・・・でも、何だかその煩わしさって生きている喜びでもありますからね」


 円花は一刻も早く家に帰りたい心境になっていた。今度、巧にお弁当を作る時は、笑わせてあげるようなキャラ弁にしようと、アイデアが沢山溢れてくる。心はすでに家族の許にあるのであった。

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