第13話 忘れられない恋

 会社を辞めることを決意した豊は、積極的に今まで付き合いのあった人たちに連絡を取った。自分で事業を興すことを伝えるとともに何らかのアドバイスや協力が得られることを期待してのことでもあったのだが、忙しくて疎遠になってしまっていた人たちとの再会は、それだけで楽しい一時となっていた。

 今日も豊は数年前まで頻繁に飲んでいた仲間たちとの飲み会に参加していた。豊が久しぶりで連絡を入れると皆快く集まってくれた。

「よく集まっていたのって10年くらい前だよな」

「皆それほど変わっていないね」

 なかには体系も髪型も無残なほど老けた友人もいたのだが、そこはあえて指摘せず、皆和気あいあいで昔話に花が咲いた。

「そういえば、春菜さんのカフェ行った?」

 この集まりのなかで唯一の女性の発言に豊の心臓はドキッとした。

 この会にはもう一人女性がいた。それが春菜だった。豊は春菜には連絡を入れることができなかった。

「俺行ったよ。繁盛しているようだった」

 誰が発した言葉かもわからないくらい、その後の記憶が豊かにはなかった。春菜のカフェの最寄り駅と詳しい場所だけは耳に残っている。二次会のカラオケハウスでも心ここにあらずといった具合だった。


 数日後の夕方、独りでボーと歩いていると以前入ったバー『タイムトラベル』の前に立っていた。豊は迷わずドアを開けた。カウンターには以前のバーテンダーではなく、大柄な女性が立っていた。


「最初の一杯はビールを飲んでいただくのがこの店のルールになっています」

「どうも」

 出された真っ黒なクラフトビールは、意外にも泡がクリーミーで甘い味がした。

「会社を興すことになって家族に伝えたのですが・・・」

 豊は今、心を占拠していることを口にすることができなかった。当り障りのない話題を持ち出す。

「反対されたの?」

 ママのミツヨはつまらなそうに言った。

「いいえ、そうではないのですが、妻はいつもの口癖「パパに従います」でね。もう少し色々と話をしたいなって思うのですが、それができなくて」

「奥様はあなたに興味がないのかしらね」

「そうとも言えますね。お互い様かな」

「結婚されて何年経つの?」

「えっと、13年くらいです」

「奥様は専業主婦なの?」

「そうです」

「だからご主人の仕事に口出しをしないのね」

「そうなのですが・・・」

「あれはちゃんとやっているの?」

 ミツヨの表情が生き生きとしてくる。

「あれ?」

「もういやね。夜の営みよ」

「ああ、もうずいぶんご無沙汰です」

「どうしてよ」

「・・・」

 豊は思い当たることがあるのだが、口に出来ないでいた。

「あなたの浮気が原因ね。浮気というか、本気の恋かしら」

「なぜそれを・・・」

「顔に書いてあります。奥様もそれを知っているのよ」

「バレてはいないはずですが・・・」

「女の勘をバカにしては駄目よ」

 訳知り顔のミツヨに圧倒されるばかりの豊かだった。

「でも、すぐに別れました」

「そうなの」

「はい、相手から別れを告げられて・・・」

「あなたも辛くなってしまったのね」

「そうですね。すでに結婚して子どもは2歳になっていたかな。仕事が忙しくてなかなか世話をすることもできなかったのですが、かわいい盛りでしたし・・・」

「恋に走るわけにはいかなかったと」

「そうですね。妻とも仲は悪くはなかったですから。離婚する理由はありませんでしたが・・・」

「浮気相手の方と別れて後悔しているっていう口ぶりね」

「そんなことは・・・ただ・・・」

「ただ?」

「子どもがいたのです。最近知ったのですが・・・」

「その浮気相手の方が子どもさんを産んでいたって訳ね」

 ミツヨは驚いたような声を出していたが、内心ではそうでもないようだった。

「女の子です。もう8歳になります」

「認知はしたの?」

「いいえ、相手がそれを拒否しました。そもそも私の子どもではないと言い張っています。それに金銭的には困っていないようで、私は何にもしてあげられない。してあげる権利もありません」

「だったらあなたの子だとは限らないのではないの?」

「そうですが、自分の子だと彼女の態度でそう確信しています」

「会うことはあるの?」

「実はさっき遠くから親子を見てきました。名乗れないし、彼女に合わす顔もないので」

「未練はあるの?」

「未練ですか?それはわかりません」

「奥さんに子どもがいたから別れたのに、何だか皮肉な話ね」

「はい・・・」

「実は私の子の、子と言っても亡くなった姉の子を育てているのだけれど、その子の父親が最近になって会いに来てね。ちょっとした大騒動よ」

 ミツヨの告白に豊は身を身を乗り出していた。

「そのお子さんはお父さんとはいつまで一緒に暮らしていたのですか?」

「そうね、1歳になる前に出て行ったから、彼女は覚えてもいないらしいの」

「今は何歳ですか?」

「17歳なの。それで本人は最初混乱してしまってね。」

「混乱していますか・・・」

「ええ、でもね、子どもって逞しいわよ。数日間は取り乱していたけれど今ではもう元気に明るくしているから」

「お父さんのことをどう言っているのですか?」

「ルーツではあるから会ってどんな人か知ったことは良かったって。ただね、会いに来た理由は再婚相手に子どもができて相続問題に発展しないよう相続放棄しろっていう話だったから。本人としては傷ついたようだったけれど」

「相続ですか。認知すると戸籍に載ってしまうから家族に隠し通すことは難しい・・・だからって今のままでいいのか・・・」


「だったら、これ飲んで昔の自分と向き合ってくれば?」

 年代ものだというウイスキーのロックを豊は豪快に呷った。

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