第11話 強い意志 ジントニック

 家の中は静まり返っていた。両親が娘の楓をつれてオーストラリアへ旅行に行っているからだった。春菜はダイニングテーブルで独り、カフェで店長の麻里奈が試作品だと作ってくれた料理を持ち帰り食べていた。

「まだあと一週間は帰ってこないのね」

 当たり前なのだが、独り言をつぶやいても何の反応もない。最初の数日間は独りの時間を満喫していた。いつもだったら家に帰ると誰かが何かの話を春菜にしてくる。父からはその日の株価の結果やら今後の予想などの話を永遠とされ、母からはお茶会やら習い事での不満や愚痴が山のように溢れ、楓は学校での出来事を捲し立ててくる。仕事で疲れた春菜にとっては、時にそれは拷問のようなものだった。だが、こんなにも長く独りで家に取り残されたのは初めてで、いつもの喧騒が懐かしく、恋しくなっていた。


 カフェで仕事をしている時は、寂しさも紛らわされるのだが、普段は店長の満里奈に店を任せているのに、こんな時ばかり店に居続けることもできず、春菜は行き場のない身体を持て余していた。

 こんな時に限って、一緒に飲みに行ってくれる友人もつかまらず、春菜は自分だけがどこかの星に取り残されてしまったような気分から抜け出せなかった。


 麻里奈が休みの日、春菜は最後までカフェに残りいつもの通り店を閉め、夜の街に出た。世間は夏休みのせいか、普段より若い子たちが街を賑やかにしている。春菜は自分が急に老け込んだような思いに囚われてしまうのだった。


 以前独りで飲んだことのある、バー『タイムトラベル』の看板が目に入る。春菜は躊躇わずにバーのドアを開けていた。カウンターには以前とは違う蝶ネクタイをしたバーテンダーがいた。


「最初の一杯はビールを飲んでいただくのがこの店のルールになっています」

「ありがとうございます」

 出されたクラフトビールはフレッシュな洋ナシの香りがしてとても美味しかった。

「あと数年もしたら、私は本当に独りぼっちになってしまう」

 春菜は自分でも気が付かなかった心の声を吐き出していた。


 楓の父親との恋愛を最後に、春菜は誰とも交際せず、出会いの場に行くことすらしてこなかった。周りからはあれこれ言われ、紹介されることもあったのだが、頑なにそれらを拒んできた。仕事が好きで夢中になっていたのも理由としてはあるのだが、何より楓を混乱させたくはなかった。シングルマザーが交際相手や再婚相手に子どもを殺される事件を耳にするたびに、自分の選択は間違ってはいないと思いたかった。


「恋愛はもうこりごりですか?」

 男性の逞しさと女性のナイーブさを併せ持つバーテンダーに優しく言われ、いつもなら間髪入れずに恋愛を否定している春菜だったのだが、今はそれができないでいた。

「何だか急に寂しくなってしまって、ちょっとだけ恋愛がしたくなってしまったの。でも、子どもがいるから駄目よね」

「子どもがいるから駄目ではないと思いますよ」

「でも、知らない人が急に父親面してこられたら、子どもだっていい迷惑じゃない」

「父親面する必要なんてないと思いますよ。私はパートナーが育てている子の父親には最初からなれないと思っているので」

「ここのママさんのお姉さんの子を一緒に育てていらっしゃるのよね」

「そうです。三人家族ですが、それぞれが他人として自分の役割を全うしているという感じですかね」

「役割?」

「はい、私はママのパートナーとして彼女との関係を楽しんでいますし、私は同居人の大人として子どもと接しています。叱ることもありますので、口煩いと文句を言われることもありますが、彼女の成長を見守る思いは、親と同じですしね」

「本当の親ではないのにって、言われたりはしないの?」

「日々言われていますよ、もう17歳ですしね。でも、だから何?って返しますし、それが事実ですから、私が気にすることはないですね」

「そんな大人が身近にいるのって、子どもにとっては良いことなのかも」

「子どもさんとのことも大切ですが、ご自身のことについて考えるのも忘れないでくださいね」

「私は仕事が好きだったからそれだけで十分だって思っていたの。家族もいて仕事場の人間関係にも恵まれていて、これ以上何を望むのかってね」

「誰しも一人では生きていけないですからね。だからと言って、パートナーが絶対に必要だとも思いませんが」

「そうよね。パートナーが欲しいわけでもないのよ。ただね、娘が大学を卒業する頃には、私はもう60歳でしょう。いつまでもカフェ経営を続けられるかわからないし、最近、仕事への情熱も失ってしまって・・・」

 そうなのだ。春菜は仕事をしていても虚しくなってしまうことがあった。カフェ経営で売り上げを伸ばしてもそれほど嬉しくなくなっていた。店長の満里奈や他の店員たちに任せていた方が経営は安定することもわかり、春菜の存在価値すら疑わしくなっている。だからと言って新たな商売や経営拡大の勝負に出る勇気も気力もなく、次の一手が見つからないのだった。


「これ飲んで、60歳になるまでのご自分に会ってきてください」

 春菜は出されたジントニックを思いっきり喉に流し込んだ。

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