第10話 10年前の自分
「もう三年生になるのだから、部活動は禁止よ」
斗真の模試の結果を前にして、母親の顔は怒りで火が出そうな勢いだった。ここで反論しても説教が長くなるだけだ。
「わかったよ」
それだけ言って自室にこもった。
高校に入学したばかりの頃がピークで、成績は坂道を転げ落ちるように下がっていた。机の上には受験対策の参考書を広げてはいるが、全く身に入らなかった。全巻揃えた漫画本を一巻から手に取った。何度読んでいるのかわからないくらいなのに、ストーリーの中に引き込まれていった。気が付くと真夜中だ。小腹が空いてきたのでキッチンに行こうと自室を出た。
暗い廊下のはずが父の部屋から明かりが洩れていた。部屋を覗くと父の姿はなく、机の上には分厚い医学書とビッシリと難しい文字が書かれたノートが置かれている。お気楽な開業医の姿しか見たことのない斗真は、父の意外な一面を知り驚いた。
「斗真、ちょうどよかった、お前も食うか?」
「インスタントラーメン?」
「そう、パパお手製の野菜たっぷり塩ラーメン。作ったのはいいけれど、これ全部食べる自信がなかったからさ」
「美味そうだね」
一人前を二人で分けてインスタントラーメンを食べた。そんなこと初めてのことだった。
「漫画を読んでいたのか」
「そう・・・」
「医者になんかならなくてもいいぞ。パパがママを説得するから」
「えっ?・・・」
「今まではママに何を言っても通じないと思って黙っていたけれど、このままだとお前が辛くなるばかりだからな」
「いいの?医者にならなくても」
「好きなことすればいいよ」
「オヤジはどうして医者になったの?」
「そう決められていたからな。選択の余地はなかった」
「じゃあ、後悔しているの?」
「そんな時期もあったかな。でも、今は違うよ。医者になって良かったって思っている」
「どうして?」
「人が好きだからかな。町医者は患者さんの顔を見て治療方針を決めて専門医へ繋げることが大事なのだなってわかって、自分の使命みたいなものが見えたからかな」
「治療方針を決めるだけって何だかつまらなくはないの?」
「そうだね。でも町医者がどう治療するべきか示さないと皆が困ることになるからね」
「町医者か」
「斗真は医者になりたいのかちゃんと考えなさい。それに医者と言っても色々な職種があるのだから、町医者に拘ることもないし」
「わかったよ。考えてみる」
インスタントラーメンの麺は少し硬かったがとても美味しかった。普段は見ることのなかった父の姿に、斗真の頭は混乱していた。
斗真は高校三年生になった。父親から「医者にならなくてもいい」と言われたが、他になりたい職業もなく、「医者にはならない」と、断言できるほどの覚悟はなかった。
新学期の初日、母親からは禁じられていたが、斗真は真っ先に水泳部の部室に行った。独りで漫画本を読んでいると忠司と有紀が競うように入ってきた。
「何だよ、俺が一番だと思っていたのに」
「私も、独りで漫画を読みたかったのに」
「あのさ、ここは部室だよ。皆で集まるのが楽しいのに」
「そうだけどさ、ほんの数分でも独りでここにいるのが至福の時間なのだよ」
「あのさ、俺、もうここには来られないかもしれない」
「どうして?」
有紀の寂しそうな顔にハッとなる斗真だった。
「うん、・・・」
「なになに、何があったのさ」
忠司は面白がっている。
「母親が部活動なんてしていないで勉強に専念しろって、うるさくてね」
「お前は医者にならないといけないからな」
「でもさ、父親は別に医者にならなくてもいいって言ってくれてさ」
「それで悩んでいるのか」
「私、医者になりたかったの」
「え?」
有紀の突然の告白に斗真も忠司も戸惑った。
「でもね。お金がかかるでしょう。家では無理だから、看護師になることに決めたの」
「そうなのか?」
「まあ、学力的にもその方が良いって、先生も言っているしね」
おどけながら笑って言う有紀が大人びて見えた。
「斗真はさ、他になりたい職業とかあるの?」
「わからない」
「俺は役者になるって決めた」
「そうなのか?」
「ああ、大学は行かずに劇団に入る」
「嘘、いつの間にそんなこと考えていたのさ」
「忠司先輩は映画とか舞台とか沢山観に行っていたものね」
楽しい時間を共有していたはずの二人には、斗真の知らない別の世界があった。自分だけが暗闇の洞窟に取り残された気分だった。
忠司は用があると言って先に帰ったので、斗真は有紀と二人で駅までの道のりを歩いた。
「どうして医者になりたいって思ったの?」
斗真は有紀に率直な疑問をぶつけた。
「子供の頃、入院したことがあって、そこで出会った人たちが素敵だったからかな」
「そうか」
「どうしても医者になりたくないの?」
有紀の言葉に斗真は一瞬言葉が詰まる。
「・・・そうじゃないから、悩んでいる。どうしていいのか、わからなくてさ」
「でも、チャンスがあるのであれば、目指してみたら?目指すこともできない私には、羨ましいことだわ」
「・・・」
「そんな顔しないでよ。私は色々と調べてみて現実とのギャップに気が付いたの。医者ってやっぱりちょっとやそっとの勉強でなれるものではないでしょう。私には看護師という職業が向いているって悟ったから。それだってなれるかどうかは、まだわからないしね」
「そうだよね。俺の今の成績だと、医学部以外だって難しいからな」
「勉強から逃げているだけじゃないの?」
「そうかもね。逃げているよな」
「ねえ、斗真先輩、医者になってよ。私が看護師になったら一緒に働きたいな。じゃあここで、バイバイ」
有紀は斗真の言葉も待たずに、自分が乗る電車のホームへと駆けて行った。
気が付くと、斗真はカウンターで寝てしまったようだった。
「冷たいお水飲んで、シャキッとしなさい」
ママに言われて、水をグッと飲み干す。同じ病院で働いている有紀の顔が鮮明に頭を占拠していた。
「動機なんて不純でいいのよ?」
「えっ」
「勉強頑張って医者になれたのだから、もう、それだけでいいじゃないいの。敷かれたレールだって自分のレールにすることはできるはずよ。後はこれからどういう医者になりたいのか、自分の心の中に答えはあるはずでしょう」
バーを出た斗真は有紀に電話をしていた。有紀が一緒に働いてくれれば、町医者として自分らしくやっていけそうだ。斗真は覚悟を決めていた。
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