第9話 敷かれたレール

「斗真君、どうしたの?さっきからため息ばかりついちゃって」

 斗真は春菜のカフェで目の前にあるロコモコ丼を食べずにジッと見つめていた。

「あっ、春菜さん」

「斗真、お前大丈夫か?」

 忠司が笑いながら斗真の顔を覗き込む。

「大丈夫だよ」

「春菜さんに告白する気か?」

 忠司に小声で耳打ちされ、一瞬ビクつく斗真だった。春菜はとうに厨房に消えていた。

「あれはもういいのだ」

「そうか、諦めたか。じゃあ、他に何悩んでいるのさ」

「これから先のこと」

「医者としての?」

「そう」


 斗真は今朝の家族会議のことを思い返していた。

「お祖父ちゃんも元気だとは言え、もう82歳だからな」

 父親が思案顔で言う。

「でも、お祖父ちゃんがいるから通ってきている患者さんも多いのでしょう」

 医学生の妹の風香の言葉に父も母も頷いた。

「それに、仕事をしなくなったらボケちゃうかもよ」

 斗真は祖父が年の割にしっかりしているのは現役で医者を続けているせいだと思っている。それは家族の誰もがそうだった。だが、だからと言っていつまでも続けられるものではない。現に周りのフォローは必須で、看護師たちからは苦情が出ている始末だった。

「お祖父ちゃんの診療室はそのままにするけれど、診る患者さんは徐々に減らそうと思う」

「パパの負担が増えるのではないの?」

 母親が心配しているのは、父の身体ではなく収益源の方だなと、斗真は考える。

「そこでだ、斗真、お前ここで耳鼻科を開業しないか」

「ここで?」

「そうね、どうせ斗真が継ぐのだから、いいじゃないの」

 5歳下の風香は斗真を兄と認識したことがないようでいつも呼び捨てにされる。

「お前が継げよ」

「それは無理よ。私は救命医療に興味があるのだから」

「テレビの影響かなんだか知らないけれど、大変だよ」

「わかっているわよ。お気楽な斗真とは違うの」

「斗真はどうしたいのだい?」

 父親に聞かれても斗真は何も答えられなかった。風香のようにこうなりたい、という姿がまだ見えないでいた。


 斗真が春菜のカフェを出ると午後5時を過ぎたばかりだった。飲みに行きたいが忠司はこれからが仕事だというし、休日は今日だけで明日も早くから病院に出なければならない。独りで飲みに行くのは苦手だし、時間的に開いているお店も少ない。斗真は家に帰ろうとしていた。

 駅に向かって歩いていると、以前に行ったことのあるバー『タイムトラベル』の看板が目に入った。

「開いているかな?」

 斗真は恐る恐るドアを開ける。カウンターには以前のバーテンダーではなく、大柄な女性が立っていた。


「最初の一杯はビールを飲んでいただくのがこの店のルールになっています」

「はい、ありがとうございます」

 斗真はグッと一気にクラフトビールを飲み干した。

「俺、医者になって良かったのかな」

「お医者様なんて素敵じゃないの」

「そうですかね」

「でも、大変そうよね」

「はい、大学病院の勤務は思っていたより大変です」

「そうかもしれないけれど、人の命を救えるお医者様は素敵だわ」

「人を救っている実感がなくて」

「どうしてよ」

「大学病院だと人の顔が見えないから」


 大学病院での勤務にやりがいを感じられていないわけではなかった。ただ、患者の名前を覚える間もなく、次から次へと流れ作業のように外来をこなし、入院病棟でも目まぐるしく駆け回っているだけの自分には、何かが足りなかった。


 ある時、街で高齢の男性から声をかけられたことがあった。

「先生、その節はお世話になりました」

「いや、その・・・」

「覚えていらっしゃらないですよね。すみませんでした」

「いいえ、こちらこそ」

 その男性は寂しそうに斗真の前から去っていった。斗真は本当に何も覚えてはいなかった。それが何だかとても悔しかった。テレビドラマで見るように、患者と医者との濃密な関係なんて土台無理な話だとは分かっている。研修医を終えたばかりの斗真に必要なのはもっと知識を増やすことだとも分かりきっている。だが、何のために医者になったのか、誰のために医者を続けているのか、斗真は迷路に迷い込んだ子どものように、空を見上げて泣き叫びたい心境になるのだった。


 生まれた時から医者になることが決まっていた。特に母からはそう言われ続けてきた。少しでも学校の成績が下がると、「このままだと医者になれないじゃないの」が母の口癖だった。医者になりさえすれば、全ては上手くいくと言い聞かされてきた。忠司や有紀たちとの外出も制限され、高校三年生になると水泳部への参加も禁止された。友だちとの付き合いよりも勉強することだけを優先させられた。斗真はそれに従うことしかできなかった。


「人の顔が見えるのって、やっぱり大事よね」

 ママがしみじみと言う。

「カウンターに立っているとお客様の顔がよく見えますよね」

「そうね。それが楽しくて続けているのかも」

「何だかバーテンダーさんやママさんて、精神科医のようですね」

「そんな立派なものではないわよ。医者じゃないから好き勝手が言えるのよ。お客様だってこっちに何にも期待なんてしていないだろうしね」

「医者になんかならなければよかったのかな」

「これ飲んで、10年前に戻ってくれば」

 斗真は躊躇することなく、ウィスキーのロックを一気に飲み干した。

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