第8話 家族の絆

「君の好きなようにすればいいよ」

 豊は優しく言った。

「お義母さんに確認しなくていいの?」

「俺たちの結婚式に口は出さないってさ」

「そうなの。それならばここの結婚式場がいいわ」

 円花は昔から自分で決めていた結婚式場のパンフレットを豊かに見せた。

「結婚式ってそんなに大事かね」

「大事に決まっているじゃない」

 円花は膨れっ面をした。

「ごめん、ごめん、男にはちょっとわからなくて」

「女性にとっては晴れ舞台なのだから」

 円花は本気でそう思った。今まで出席した結婚式のどの花嫁にも負けないくらい、綺麗になってみせる。そう固く心に誓った。


 仕事で忙しいという豊に代わって、円花の母が結婚式場の下見や花嫁衣裳選びに付き合ってくれた。

「こっちのコース料理の方が良いわよ」

「ママのセンスで決めていくと、予算が足りないわよ」

「一生に一度のことなのよ、少しはパパが出すから大丈夫よ。でも、豊さんに悪いかしら」

「それなら大丈夫、彼は私の好きなようにして良いって言ってくれているから」

「本当に優しいお相手で良かったわね。エリート会社員だし、ルックスも良いし、同居だって聞いた時は心配したけれど、完全分離の二世帯住宅で、それに、あのお姑さんは近所でも評判の良い人だから安心だし」

「えっ、お義母さんのこと調べたの?」

「調べたわけではないけれど、知り合いの人が近所に住んでいて、ちょっと聞いてみただけよ」

「ママったら・・・」

「だって心配じゃない。でも、マザコンでもなさそうだし、本当に良い人みたいだから円花ちゃんは幸せ者よ」

 母親が喜んでいることが何より嬉しい円花だった。


 専業主婦になった円花は料理教室にも通い出し、日々忙しく活動していた。豊の帰宅はほぼ毎日午後10時過ぎで、休日出勤もあれば、泊りになることもあった。

 豊の身体のことを気遣って、毎朝5時には起きてお弁当作りに精を出した。平日は家で夕食をとらないことも多い豊だったが、夜食を食べることもあったため、お茶漬けや煮込み饂飩など夜遅くても胃に負担の少ないメニューを考え、それらの材料を揃えておくことも欠かさなかった。

 料理教室で覚えた手の込んだ料理を一度だけ舅姑の部屋に持って行ったことがあった。舅はとても喜んでくれたのだが、姑は一瞬だけ迷惑そうな顔をした。言葉ではとても嬉しいと言っていたのに。それ以来、余計なことをしないと決めていた。

 姑はとてもマイペースな人だった。その上、他者への関心は薄く、自分の趣味や旅行にばかり心を尽くしていた。夫に対しても、息子である豊に対しても、どこか冷めているような態度でいる。そのことに気付いてからは、円花も誰に対しても淡白に接するよう心掛けた。


 子どもが生まれたことで、益々円花の日々は充実していった。専業主婦の価値や地位を低くみなす傾向が今の社会には蔓延しているようだが、円花はそうは思えなかった。

 家族が心地よく快適に暮らすためには、食事の支度から洗濯に掃除、更には食材や消耗品の買い出しなどなど、自分が満足できる家事を遂行するためには、専業でするしかない。それでもやりたいことは山積みだった。シーツや枕カバーの交換は本当なら毎日だっておこないたいのだが、そんな時間はとてもない。掃除機をかけ、床を水拭きするだけでも精一杯だ。円花はお手伝いさんを雇いたい心境になることすらあった。


 夫や子どもを犠牲にしてまで働くことに何の意味があるのか。円花はそう考えていた。

「働かないの?」

 と、家庭と仕事を両立させている友人たちは、蔑んだように言ってくる。

「忙しくって嫌になっちゃう」

 と、愚痴りながらもスーツを着てハイヒールを履き、自分は輝いているでしょうと見せつけてくる。それも立派なことだと円花は思う。でも、自分にはそんな器用なことはできなかった。


 短大の幼児教育課に通っている時、保育園へ2週間の実習研修を体験した。そこで円花は、働く母親たちの代わりになるはずの保母たちの対応に疑問を覚えた。そこは公立の保育園で、保母たちは皆公務員だった。子どもたちを安全に預かる術は身に着けているのだが、そこには教育的な観点もなければ、愛情すら感じることができなかった。それはあくまでも円花の未熟な視点であることは分かっている。保育園で過ごした子どもたちだって立派な大人に成長していく。

 それでも、円花はそのことがきっかけとなり、自分の子どもを保育園へは預けたくないと頑なに決意していた。


 ハッとして目が覚めると、バーのママが冷たい水を手渡してくれた。円花は一気に飲み干す。強い心が蘇ってきたようだ。

「家族ってやっぱり素敵よね」

「えっ・・・」

 風貌に似合わないことを言うミツヨに驚く円花だった。

「何よ、そんな意外そうな顔をして。私にだって家族はいるわよ。戸籍上は他人の夫と、産んではいないけれど血が多少繋がっている娘が」

「・・・」

 円花は言葉に詰まってしまった。

「同じ屋根の下で寝起きを共にし、同じ食事をとっているだけで、絆はできてくるものね」

「絆・・・」

「あなたも家族の絆のために頑張ってきたのね」

「家族のために私は家事を頑張ってきたのではないのかも。自分のためだったのかな」

「それだって素晴らしいことじゃない。私の娘は、娘と言っても亡くなった姉の子ね。その子は17歳になるのだけれど、だんだん大人びてきて生意気になってね。家族の形も今までのようにはいかないなって、最近ちょっと覚悟しているの」

「覚悟ですか?」

「そう、あなたも子どもが大きくなったら、ちょっと世界を広げてみれば?そうすればもっとあなたらしい生き方に出会えるはずよ」


 バーを出て夜風に当たる。こんな遅い時間に繁華街にいることなんて何年ぶりだろう。それまで円花が見てきた景色が、舞台の暗転のように変わっていく。

「世界を広げる、か・・・」ミツヨの言葉がいつまでも頭の中で木霊する。円花は上を向いて歩き出していた。

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