第4話 9年前の選択

 豊と別れてから、春菜はゴルフにもスキューバダイビングにも行くことができず、茫然自失な日々を過ごしていた。体調が思わしくなく微熱が続いている。そう言えば生理が遅れていた。薬局で妊娠検査薬を買ってはみたが、調べる勇気は持てないでいた。異変に気が付いていたのは春菜だけではなかった。

「あなた、最近元気がないわね」

 演歌歌手の追っかけで忙しい母が珍しく休日家にいて、茶を点てながら言った。

「そうかな」

「そうよ。妊娠しているでしょう」

「えっ・・・」

「調べていないの?早く病院いきなさいね」

「もし・・・妊娠していたら?」

「産めばいいじゃない。そもそもすでに高齢出産だしね。きっと最後のチャンスよ」

「結婚しなくても産んでいいのかな」

「フランスでは当たり前でしょう。お腹の子の父親とは別れたの?」

「そう、別れた」

「じゃあ良かった。私の計画通りだわ」

「何それ?」

「あら、言っていなかったかしら。パパとも話していたのだけれど、あなたが一人っ子だから婿をとるのが普通だろうけれど、それは嫌だわって」

「婿は嫌って・・・」

「ほら、向かいの花田さんとこ、お婿さんが同居していたけれど結局離婚してしまったじゃない。でも、娘さんとお孫さんとの暮らしがとっても快適だって言っていてね。だから私もあなたが一度結婚して子どもに恵まれて離婚する、という結末を望んでいたのよ」

「離婚して欲しかったの?」

「そうよ。だからそれが省けるのだから。喜ばしいことじゃないの」

「パパも喜んでくれるのかな」

「そりゃあもう、昨夜その話をしていたところよ」

 春菜が悩む暇もなく、出産することが決まってしまった。


 病院に行きハッキリと妊娠を告げられた翌日に、春菜は大学を卒業してから15年近くも勤務を続けてきた会社に辞表を提出した。会社を辞めることに悔いが無かったわけではない。課長として部下もでき、これから出世の階段を上がることを目標にしてきた。上司や同僚たちにも恵まれ、春菜にとっては働きやすい環境で仕事を続けたいというのが本音だったが、仕事を続けるには結婚も出産もタブーの会社だった。女性管理職が認められたとはいえ、それはあくまでも男性並みに働けることが条件だった。夜中まで働き、休日出勤も出張もこなし、飲みの席にも嫌な顔せず参加して、モラハラもセクハラも上手く掻い潜る術を身に着けている春菜だからこそ、今の地位が与えられている。子どもを授かったからにはその地位は手放さなければならなかった。

 両親からの理解も得られ、金銭的心配も全くないのはとても恵まれていることだったが、言葉にならない心のモヤモヤが拭えない春菜だった。いっそ堕胎して仕事を続けた方が私は良かったのではないか、そんな考えが頭を過る。


 今日が最後の出社日という朝、父親と珍しく朝食を共にした。

「会社を売ることになったよ」

 父の言葉は唐突過ぎて、春菜の頭は混乱していた。

「えっ、そうなの?これからどうするのよ」

「しばらくはママと二人豪華客船で世界旅行でもするよ」

「その後は?」

「孫の世話さ」

「そうなの」

「だからさ、お前は落ち着いたら仕事をすればいいよ」

「仕事?」

「そう、お前は仕事をしていないと、ダメになるだろう」

「うん・・・」

「会社で出世することだけが人生じゃないよ。これからは本当にやりたい仕事を見つけて頑張ればいいじゃないか」

 何だか春菜の心のモヤモヤの正体を知っているかのような口ぶりだった。父の言葉に春菜も腹を決めていた。


 出産がこんなにも辛いこととは思ってもいなかった。子沢山の人たちの気風うの良さには頭が下がる。春菜は一度の経験で十分だった。それでも胸に乗せられた生まれたばかりの赤ん坊は天使のようだ。愛しさで胸が占拠され、自分のことなどどうでもよくなる。


 ハッとして目が覚めると、バーのママが冷たい水を手渡してくれた。春菜は一気に飲み干す。身体が少し軽くなる。

「お子さんを産んでいなかったら、どうなっていたと思うの?」

 ママは低い声で問いかける。

「今では考えられません」

「そうよね。子どもは授かりものだし、宝だもの」

「お子さんいらっしゃるのですか?」

「ええ、亡くなった姉の子を育てているの」

「それはお辛いですね」

「病気だったのよ」

「お姉さんは心残りだったでしょうね」

「子どものことだけが生き甲斐だったからね」

「五体満足で生きている私はそれだけでも幸せですよね。それなのに過去の選択に囚われてしまう」

「過去なんてどうとでもなるのにね」

「どうとでも?」

「そう、過去に意味を持たせているのは今の自分だから。今が良ければ過去も良いものと思えるし、今の自分が許せなければ過去の自分も許せなくなる」

「確かにそうですね」

「あなたは今お子さんがいて幸せでしょう」

「はい、とっても。仕事中心の生活をしてきた自分がこんなにも他人の世話ができるなんて思ってもいなくて。それをしている自分のことも大好きになりました」


 店を出るとすぐにタクシーに乗ることができた。楓がもう少し大きくなったら豊のことを話してあげよう。

「あなたは愛の結晶なのよ。あなたのお陰でママはとっても幸せよ」

 ドライバーには聞こえないように口に出していた。

 明日からまた、カフェの経営立て直しに本気で取り組もう。張り切る思いが蘇ってくる。まずは麻里奈の言っていたハワイ料理を調べて、それから・・・考え始めるとあっと言う間に楓の待つ家に到着していた。

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