第3話 秘めた思い

 春菜はパソコンの画面をじっと見つめていた。エクセルで作ったキャッシュフロー表の残高は文字通り赤字になっている。カフェを開店して6年目、順調に経営してきたはずなのだが今年は苦戦を強いられていた。近くにチェーン展開のカフェが出来た時も何とか乗り切ったのに、タピオカブームでキッチンカーのカフェが近くに出没するようになってからは、めっきり来店客が減っている。

 8歳になる一人娘の楓は春菜の両親が育てているようなものだ。会社を経営していた父は意外とすんなり他人に会社を売り渡し、今や悠々自適な隠居生活を楽しんでいる。株式投資で利益を出してもいるようで、春菜が頼めば資金援助はしてくれるはずだが、どうしてもそれは嫌だった。

「麻里奈ちゃん、飲みに行こうか?」

「いいですね」

 いつもは飲みに行くこともなく、真っすぐに楓の待つ家に帰るのだが、今日はそんな気分になれなかった。「いいですね」が口癖の現場を任せている店長の麻里奈は、案の定誘いに乗ってくれた。


 大阪出身の麻里奈はお好み焼きを手際よく焼いてくれた。レモン入りのハイボールとの相性は抜群で久々に爽快感を味わうことができた。

「あの、聞き難いことなのですけれど、楓ちゃんのお父さんて・・・いや、すみません。やっぱりいいです。今の話は忘れてください」

「麻里奈ちゃんとの付き合いも、もう7年くらいになるのよね」

「そうですね。春菜さんがカフェを開く計画を立てていた時からですからね」

「麻里奈ちゃんがカフェで働く姿をみて、私はカフェ経営を始めようと決意したのだから」

「そうでしたね。懐かしい」

「楓を出産して実家の厄介になっていた時で、そろそろ何か仕事をしないといけないなと思っていた時だったのよね」

「私は春菜さんから一緒にカフェをやらないかって言われて、本当に嬉しかったです」

「それならいいけれど」

「あの、これからのカフェ経営で思いついたことがあるのですが・・・」

 それから春菜と麻里奈はカフェの今後の新たな展開について暫く話し合った。


 麻里奈と話し合ったことで春菜は希望の光が見えてきたと思えた。肩にズドーンと伸し掛かっていた重しが少しだけ軽くなる。それでも気が晴れないのは麻里奈に聞かれた楓の父親の話題が頭に残っているからだった。


 麻里奈が乗る地下鉄の入り口で別れた春菜はタクシーで帰ろうか、電車に乗ろうか迷っていた。タクシーがすぐにつかまれば迷わず乗っているところなのだが、生憎空車は走っていなかった。普段は電車に乗ることに抵抗も無ければむしろ好きなくらいなのだが、その日は酔っているせいもあり優柔不断な態度でトボトボと歩きだす。


 気が付くと『タイムトラベル』というバーの前に立っていた。春菜は迷わず重いドアを開け中に入った。

「最初の一杯はビールを飲んでいただくのがこの店のルールになっています」

 身長が180㎝はありそうなかなり大柄のママが不敵な笑みをたたえている。

「それならばそれを」

 琥珀色のクラフトビールは、ほろ苦くも甘く春菜好みの味だった。

「楓を妊娠した時は正直とっても悩みました」

 春菜は聞かれた覚えもないのに目の前にいるママに過去の出来事をベラベラと話し始めていた。


 豊と出会ったのは、ある飲み会の席だった。勤めていた会社の同僚が連れてきた友人で春菜より2歳下だった。別に合コンというわけではなかったので、気負いもなくむしろ昔からの知り合いのような感覚で豊とは話が弾んだ。既に豊は結婚していて2歳になる男の子の父親だという。独身の春菜にはむしろその方が気楽で飲み会を楽しむことができた。

 その後もその場に居た数名で飲む機会が増えていった。ある時、気が付くと豊と春奈は二人きりで話が盛り上がっていた。同僚たちは別のテーブルで歓談に花が咲いている。春菜はこんなにも打ち解けられる男性がいたことに少しだけ戸惑いを覚えた。

 35歳を過ぎ春菜はとうの昔に結婚というものを諦めていた。諦めているというよりは、自分は結婚には向いていないと思っていたのだ。仕事が楽しく、こうして外で飲むことが大好きだったし、男性の友人も多くゴルフやスキューバダイビングが趣味でプライベートも充実している今の生活を手放すことなど考えたこともなかった。


 終電が無くなり豊と春奈がラブホテルに入るのは必然的なことだった。

 春菜はそれまでもいくつかの恋愛をしてきていた。10歳以上年の離れた男性との不倫も経験している。しかし、どれも淡白なもので燃え上がるような恋愛など無縁であった。

 それなのに、豊と身体を重ね合わせた時には、電流のようなものが頭の先から爪の先を通過していくのがわかった。会うたびに心が痛くなり、三回目の逢瀬の後、春菜の方から豊かに別れを告げた。豊も同じことを考えていたようで、苦しそうな表情をして何も言わずに去っていった。


「秘めた思いね」

 笑顔の少ない怖い感じのママだったが、思いの外優しく言った。

「後悔しているのかな」

 春菜は自分自身に呟いていた。

「だったら、これ飲んで9年前に戻ってくれば」

 9年ものだというウイスキーのロックを春菜は一気に飲み干した。

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