第2話 10年後の自分

 斗真は37歳になっていた。父が開業している病院で内科の父とは別に、耳鼻咽喉科の医師として働いている。春菜との結婚は親族全員からの反対にあっていたが、結婚を望まない春菜とは順調に愛を育んでいた。

 その日はアレルギー性鼻炎の治療に通ってきている忠司が最後の患者だった。治療の後、飲みに行く約束をしている。


 二人で小さな小料理屋のカウンターに座り、冷酒を飲むのがいつの間にか定番になっていた。

「有紀が三人目を妊娠したかもしれない」

「そりょあ、良かったな」

「良くないよ。有紀の給料だけじゃどうしたらいいのか」

 忠司は10年前に同棲していた子とはすぐに別れ、高校時代の後輩と8年前に結婚し、子どもが二人いた。忠司は売れない役者を続けていて、看護師をしている有紀の稼ぎが家計を支えている。

「俺もちゃんと働かないとね」

「主夫としてちゃんとやっているじゃないか」

「そうなのだけれど、有紀の負担は軽くはならないから。やっぱり母親の代わりはできないよ」

「そう言いながらも、幸せそうだね」

「子どもはやっぱりかわいいからね」

「子どもか・・・・・・」

「お前も欲しくなった?」

「いいや・・・・・・」

 それは本心ではないかもしれない。

 春菜の子どもは既に大学生で斗真には結局懐かないまま成長していた。春菜と交際をするようになってから斗真は実家を出て一人暮らしを始めた。二人で会うのは専ら斗真の部屋で春菜の家に行ったことはまだない。このまま春菜と付き合い続けても何の変化もないことはわかりきっている。春菜はむしろそれを望んでいる。

「斗真は毎年ハワイに行けていいよな。俺なんて国内旅行すらもう何年も行っていないよ」

「ハワイはちょっと飽きたかな」

「春菜さんはハワイのお陰でカフェが蘇ったっていつも言っているからな」

 春菜との付き合いは楽しかった。だが、忠司と話していると楽しいだけの自分が何とも情けなくなってくる。

「そういえば俳優の仕事はどうなの?」

「実は、テレビの仕事が増えてね。まあ、ちょい役でしかないけれど」

「地道に頑張っているね」

「好きだからね。もっと頑張って有紀を楽にしてあげないと。子どもたちにも苦労はさせたくないしね」

「家族が頑張る原動力になっているのか」


 頭の中で誰かが鐘を鳴らしているかのようだ。目を開けるとそこは自分の部屋ではなかった。

「おはよう。目が覚めた?」

 相変わらず綺麗で溌剌とした有紀がエプロン姿でリビングから声をかけてきた。

「おはよう。また飲み過ぎた。今何時?」

「10時過ぎたわよ」

「忠司は?」

「子どもたちと公園に行っている」

「やっぱり父親だよな。あいつは俺みたいにバカ飲みしないからな」

「ねえ、お味噌汁とおにぎりしかないけれど食べる?」

「食べる、食べる。頭は痛いけれど、腹減った」

 有紀は笑いながら味噌汁を温め直し、おにぎりを出してくれた。

 ダイニングテーブルに有紀と向かい合って座ると何だか新婚夫婦のようで、少し照れ臭かった。

「そういえばさ、高校の時、3人で有紀の作ったお弁当持ってハイキングに行ったことがあったよね」

「そうだったわね」

「確か秋になって水泳部の活動が減って皆で行こうということになったけれど、他の部員たちは来なかった」

「そうそう。部員といっても他に3人くらいしかいなかったわよね」

「所属していた奴はもっといたはずだけれど、練習に出ているのは数人だけだったからね」

「弱小も弱小だったしね。試合に出ても誰も入賞すらしない」

「誰も真面目に練習しなかったからね。部として存続していれば部室が与えられるからサボる場所を確保できる。それだけが目的だったしね」

「私は泳ぐことが大好きだったから入ったのよ」

「いつも一人で泳いでいたね」

「ただし、ゆっくりだったからリゾート地のマダムって言われていた」

「そうそう、俺たちもプールサイドで寝そべって日焼けしていただけだし。よく顧問の武田に怒られなかったよな」

「あの先生だってサボる目的で部活の顧問になっていたのよ。いつも校庭の芝生でゴルフの練習ばかりしていたじゃない」

 昔話に花が咲き、斗真は久々に身体も心も解放された感覚になっていた。

「ただいま」

 忠司の次男坊が斗真に駆け寄り、体当たりで抱きついてくる。3歳の子どもの全体重がのしかかり斗真は一瞬たじろぐが、温かく柔らかな感触が心地よくいつまでも抱き続けていたかった。


 気が付くと、斗真はソファーでクッションを抱えて横になっていた。

「あれ、ここは?」

「Barタイムトラベルですよ」

 斗真はカウンター席からいつの間にか移動して、一つしかないボックス席で寝ていたようだ。

「夢か」

「10年後のご自分の姿です」

 バーテンダーの真治が冷たい水を斗真に差し出しながら言う。

「えっ?・・・」

 水を一気に飲み干すと、頭がスッキリしてくる。

「でも、その未来は変えられます。あなたが望む未来をもう一度よく考えてみたらいかがですか?」

「望む未来・・・」

 斗真は考えていた。さっきの夢は本当に自分が心から望んでいることなのか。


 斗真はネオン街を一人トボトボと歩いていた。研修医として今やらねばならないことが沢山ある。もっと医学の知識を身に着けたいし、患者とのコミュニケーションの取り方についても勉強していかなければならない。

「恋愛の前に自己鍛錬だよな」

 斗真は独り言をつぶやきながら姿勢を正し、前を向いて元気に歩き出していた。

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