勇気と憎悪とその理由

氷華 青

勇気と憎悪とその理由

 私は学校が大好きだ。学業に専念し、結果が出れば最高だし、もし結果が出なくても、次頑張ろうと思えばいいのだ。そんな学校が大好き。友達がいなくたって。

 今日も大好きな学校の、教室に入る。みんな楽しそうで何より。まるで私が居ないかのように、私が入って来ても誰も挨拶しない。それでいいの。だってこれは、『私が招いた結果』だから。


 半年前まで、私は、学校が大嫌いだった。来る日も来る日も、友達に遊びに誘われ、時には関係を保つために遊びに誘い、勉強する時間もなく、成績は落ちるばかり。中学三年生、一番勉強しなきゃいけない時期なのに。いつしか、そういう生活に疲れてたみたいで、友達用の仮面が、ある日突然ずり落ちた。


 だから私は、こんな状況に置かれた。好きなときに勉強することができて、好きなときに休憩できる。なんてストレスフリーな毎日。スキップしそうになるけど、ヤバいやつだとは思われたくないから、通常歩行に留めておく。私が友人関係を誤った日から、隣の席は固定された。

「おはよう、美心みこちゃん」

「おはよ!」

 彼女は、かがみ美心。私が挨拶するまでは、絶対に挨拶してくれないけど、彼女が唯一の、私が会話できるこの学校の生徒。そして、こんな素晴らしい最悪の学校生活を送らなければならなくなったきっかけは、ただ一つを除いて他にない。

 それは、姉。姉の病気は、難病で、姉が世界初の発症者だった。前の学校では、私は何の苦もない学校生活を送れていたし、勉強とクラブと遊びの三立(両立とは言えない)も出来ていた。しかし、姉がそんな病に罹っていたことがわかったせいで、私はこの学校に転校せざるを得なくなった。それは何故か。理由は、単純だ。姉の病の治療を引き受けてくれる病院が、日本に一つしかなかったのだ。他のどこの病院も、姉を助けられる自信がなかったのだ。正直、私は姉の病の詳細を知らない。今日も平常運転で学業に専念する。大好きだけど、楽しいとは思えない学校生活は、それでも飛ぶように過ぎて、何もすることがない放課後へと私をいざなう。

 仕方なく、リュックからイヤフォンを出して、本当は持ってきてはいけないスマホを、少し学校から離れたところで取り出し、音楽を聴く。今ハマっているのは、「Alter-aisle《アルタイル》」というバンド。ヴォーカルの声を聴くと勇気が溢れてくるし、何より歌詞が素晴らしい。なんと、メンバーは全員高校生なんだそうだ。それでメジャーであれだけ人気があるなんて、本当に尊敬する。

「うわっ!」

 「何か」に、といいつつ、たぶん、「誰か」、だろうけど、とにかくそれにぶつかった。急いでイヤフォンをとる。相手がけたようだったから。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?!」

「ええ。ありがとう。あっ、プリントが!」

「あ、手伝います!」

「ありがとう」

 そして初めて彼女の顔を見た時、私は、絶句してしまった。その理由は、彼女が、「Alter-aisle」のギターヴォーカル、耀あかる星麗せいらその人だったから。

「どうしたの?」

「あの………星麗さん、ですよね?『Alter-aisle』の」

「あ、そうだよ。私のこと、知ってくれてるんだ。ありがとう。良かったら、今後も応援してね」

「はい、もちろんですっ!あの、歌詞、すごく好きです!」

「ありがとう」

 感激したが、ある不思議を見つけてしまった私は、星麗さんに訊いた。

「あの、今から、このプリント持って、どこ行くんですか?高校の、みたいですけど」

「ああ、えっとね、渡しに行くんだ。教えるのも兼ねて。病院にいる子に」

 制服が、家にある姉のものと同じだった。

「それって、もしかして、こういう名前の人では?」

 姉の名前を告げる。

「そうそう!なんでわかったの?超能力者とか?」

「いえ、それ、私の姉なんです」

「えー!それは、奇遇だね!」

「あの━━━」

「星麗、でいいよ」

 私が、なんと呼んでいいのかわからなくて困っているのを感じとってくれたのだろう、親切にも名前呼びを許してくれたので、呼び捨てはあまりに配慮に欠けるので、さん付けで呼ぶことにする。

「━━━はい、星麗さんは、いつも、姉にプリントを届けてくれてるんですか?」

「そうだよ。だから、結構仲良いんだ」

「そうなんですか。姉は、たぶん病室で暇だと思うので、たくさん話をしてあげてください」

「なんだか素っ気ないね」

「そうですか?普通だと思うんですけど」

「何かあったの?私が相談に乗ろうか?」

 こうなったら、話す他ない。

「あの、姉の病気のことは、どれくらい知っていますか?」

「世界で一人なんでしょ?なんだか、彼女の立場に立って考えてみると、悲しいよ」

 クラスメイトとはいえ、そして状況が状況とはいえ、「Alter-aisle」のヴォーカルにここまで考えられているということは、私にとっては羨望でしかなかった。

「あと、心臓の病気だってことは知ってる」

 心臓か、なるほど。実は、私は、姉の病について、ほとんど何も知らない。だから、この機会に、星麗さんに訊いてみようという作戦なのだ。

「そうなんですか」

「え、もしかして、知らなかったの?!」

「えぇ、まぁ………はい」

「私から訊き出したかったってことね。やるね、君。えっと、名前は?」

「凛です。たちばなりん

「凛ちゃん。よろしく!」

 感動だった。姉の病気がきっかけとはいえ、お気に入りのバンドのヴォーカルと知り合いになれたのだ。しかし、次の星麗さんの言葉によって、私の心象は様変わりすることになる。

「じゃあ、この機会に、一緒に会いに行こっか?」

「えっ?!」

 仰天した。私は、こんな状況に置かれることになった原因とも言える姉に、会いたくなんかなかったのだ。

「それとも、何?姉妹喧嘩でもしてる最中?」

「いえ、そういうことではないんですけど………」

「なら、決まり!行こう!」

 まぁ、少しくらい寄り道したって、いいかな。


 その病院まではすぐだった。着くまで、私は星麗さんに、「Alter-aisle」愛の限りを話し尽くした。例えば、

「私は、『Twinkle Stars』が一番好きなんですけど、星麗さんの、『Alter-aisle』の一番お気に入りの歌ってなんですか?」

「私は、みんな好きだな。みんな私が作った曲だから、私の子どもみたいなものじゃん?子どもはみんな平等に愛さなきゃ、母親失格だもん」

 とか。この質問は、訊いて後悔した。あとは、

「『Alter-aisle』って、ギターヴォーカルの星麗さんももちろんカッコいいし大好きですけど、リードギターの紗菜さんとか、ドラムの唯希さんとか、みなさんめちゃくちゃカッコいいですよね?!」

「良かったら、またあとで紹介しようか?みんな、うちの高校の同級生だし」

「え、いいんですか?!」

「うん。こうして知り合ったのも何かの縁。私は、こういうの大切にする派なんだ」

「ありがとうございますっ!」

 これは、訊いてよかったパターン。「Alter-aisle」のメンバーは、五人。ギターヴォーカルの星麗さん、リードギターのしのぎ紗菜さなさん、ベースの夜川よがわ黎華らいかさん、ドラムのはなぶさ唯希ゆきさん、キーボードのとばり習子しゅうこさん。珍しい苗字が多いけれど、本名なんだそうだ。わくわくしたが、私には先に越えなければならない壁がある。姉との再開。どう乗り切るか。

 姉の病室。これでもかと言うほど、他の病室から隔離されている。これほどの警戒態勢の中、なぜ面会オーケーなのかはわからないが、受付で許されているのだから、医師の許可はあるのだろう。その理由は、あるいは姉の命がいつ失われてもおかしくないからかもしれない。

「ちょっと、ここで待ってて。私が上手くやるから」

 病室のドアの前で待たされる。そうして星麗さんは勢いよく(病院のルール上止めるべきだったのかもしれないが)ドアを開け、

「イェーイ、蘭!」

 と大声で(病院のルール上止めるべきだったのかもしれないが)姉に挨拶した。星麗さんの先程の行動にはいくつか問題があったが、それ以上に、それに次ぐ私の姉・たちばならんの言葉には、問題しかなかった。

「プリント置いて帰って」

「それは無理。いっつもそうやって言われてるけど、このタイミングで帰ったことないでしょ?」

「だけど………」

「いいからいいから。座っていい?」

「もう、わかったわ」

「ありがと。それと、はい、お土産」

「お土産って………旅行なんて行ってないでしょう?一昨日も来たじゃない」

「そうだけど………じゃあ、この場合、なんて言えばいいの?」

「えっと………見舞い品、かしら」

「へぇ、相変わらずよく知ってるねぇ、じゃあ、はい、見舞い品」

 ドアの隙間から覗くと、姉にポリじゃが・サラダ味を差し出す星麗さんの姿が見えた。

「ありがとう」

「大好きでしょ?正直に言いなよ?」

「ええ」

 姉の笑顔を見たのは、何年ぶりだろうか。

「今日は、他の人も来てるんだ」

「『今日は』って、二回に一回は誰か連れて来るじゃない」

「いいじゃんいいじゃーん?入っておいで!」

 深呼吸。そして静かにドアを開ける。自然を装い、足音を立てずに歩く。

「凛っ………!」

「ハロハロー、お姉ちゃん。久しぶりー」

 楽しさオーラ全開で話すように徹したが、さっきの言葉は決して楽しそうとは言えないものだった。

「………やっぱり、帰って。二人とも」

「まぁまぁ、蘭。なんでそんなこと言うの?せっかく来てくれたんだよ?何日ぶりの対面?」

「十ヶ月ぶりです」

「まじかぁ。そりゃそうなるよね。えっと、蘭はさ、なんであんなこと言ったの?」

「もう、言うわ。決心がついた。ねぇ、凛」

「なぁに?」

「謝りたいことがあるの」

 柔らかくしようと意識していた眼差しを、真剣にする。改めて姉に向き直る。

「あのね。急に私の都合で転校することになって、ごめんなさい。慣れない生活が続いてたでしょう?」

 実を言うと今も今で慣れない学校生活なのだが………。そんなことは口が裂けても言えない。こんなことで、誰かに迷惑をかけたくない。たとえそれが姉であっても。

「ううん、大丈夫。心配してくれてありがとう」

「それならよかったわ。それだけが毎日毎日気がかりで」

 自分がいつ死んでもおかしくないというのに、そんなことを心配してくれていたのだ。心の底から、姉を憎んでいたことを後悔した。

「いいお姉ちゃんじゃん。さてと、今日も星麗先生が蘭くんに勉強を教えてあげよう」

「でたでた、星麗の先生モード」

「お姉ちゃん、この人、超有名なバンドのヴォーカルなんだよ、知ってる?」

「え、そうなの?!知らなかったわ」

「ご紹介にあずかりました、『Alter-aisle』のギターヴォーカル、耀星麗です」

「あなたって、いつもハイテンション」

「だって、蘭を励ましたいんだもん!」

「お姉ちゃん、今の音楽事情も知らないなんて、いったいここで何してるの?」

「でも、音楽が世界を支配しているわけではないじゃない」

「それはそうだけど………」

「あと、私はちゃんと、俳句とか、短歌とかを作ってるの」

 姉がどんな俳句や短歌を詠むのか、シンプルに気になった。

「え、そうなの?!詠んでみて詠んでみて!!」

「わかったわ、少し考えさせて」

 三秒後。

「できたわ」

『早っ!』

 これには、星麗さんと二人で驚いた。

「詠むわよ?『秋立ちぬ 部屋の窓辺に 我一人』」

 なんだか、ただ状況を説明しただけのように思えたが、もう姉のことを憎んではいないので、それ以上悪くは思わなかった。

「なんか、あれだね。最初は、『あれ、普通?』って思ったけど、あとから独りの寂しさが込み上げてくるやつだね」

「ありがとう」

 そういうことか。俳句とか短歌というものは、もっと深くまで感じなければならないことを忘れていた。

「あまり人に詠んでと言われて詠むことはないから、少し難しかったわ」

「そうだね。私、あんまり言わないし。でも、私が病室に入ったときに詠んでることはあるよね?」

「ええ。あ、これ、いただくわ」

「あ、うん。食べて食べて!凛ちゃん、私たちも食べよっか?」

 そう言って、星麗さんはポリじゃが・サラダ味二号をカバンから出す。

「あの、私、そんなの持ってきてないですよ?」

 ポリじゃが・サラダ味一号を既に食べ始めている姉は、不思議そうにこちらを見つめる。

「それは、シェアということではないの?」

「当たり前じゃん。シェアだよ、凛ちゃん!」

「え、そうなんですか?!ありがとうございます!いただきます!」

「その間に、勉強を教えていただこうかしら?」

「あ、あはは………すっかり忘れてた。待って、今から出すから」

「ありがとう」

「はい、プリント」

「じゃあ、それと交換で、やっておいたものを渡しておくわ」

「オッケー。わお、一昨日渡したのに、もうできたんだね!」

「あまりすることがないもの。大体は俳句や短歌を詠むのと、勉強をするのと、検査を受けるので一日過ごしているわ」

 そんな生活は、私にとってはなかなか厳しい。

「辛そうだね」

「いえ、でも………俳句や短歌を詠むのは楽しいし、あなたたちが来てくれて、今日初めて楽しいと思ったわ」

「今日初めてって………絶対凛ちゃんのお陰じゃん!ねぇ、私はぁ?」

「いつもと同じね」

「厳しい!あ、ごめんごめん、ちゃんと教えるよ?まず、ユークリッドの互除法なんだけど━━━」

 姉の「早くして」目線が星麗さんに届いて、私は星麗さんと姉の勉強会を隣で見学させてもらうことになった。


 一時間と少し後、私と星麗さんは病院を出ていた。星麗さんは、何かを呟いている。

「どうかしたんですか?」

 耳を傾ける。

「音楽が世界を支配しているわけではない、か………」

「あ………」

「いや、いいんだよ。そりゃそうだよね。でも、私は音楽で世界の頂点を目指す。甘い気持ちでバンドやってるわけじゃないから」

「私は」

「え?」

「私は、『Alter-aisle』ならできると思います。応援もしてます。言われなくても大丈夫だとは思いますが、どうか、諦めないでください!」

 星麗さんの笑みが零れた。

「ありがとう!頑張るねっ!!」

「はい!あと、私、明日からも姉の病室に行こうかなと思ってます。やっぱり、大切な姉なので」

「その方が絶対いいよ!私も、練習とかで忙しいけど、なるべく行けるように頑張るね!」

「はい。あの、プリントとか、渡しに行ければ行きたいんですけど、それを円滑に行うために、連絡先を交換させてもらえますか?っていうのは烏滸おこがましいですよね?」

「そんなことないよ。一緒にポリじゃが食べた仲じゃん。交換しよう!」

「ありがとうございます!」

 憧れのバンドのギターヴォーカルと連絡先交換。もう、今から死んでもいい。

「じゃあ、改めてよろしくね、凛ちゃん!」

「はい、よろしくお願いします!」

 それからは、他愛もない話をしながら、一足遅い下校をした。


「おはよう」

「おはよ!」

 今日も美心ちゃんに挨拶。今日は、一時間目から体育の日だ。

「美心、行こっ!」

 私の後ろから声が聞こえる。私の仮面をずり落とした、最大の敵だ。私の学校生活の邪魔をし、私が数少ない有害なクラスメイト認定をしている中の一人。友野ともの里咲りさ

「はぁい」

 美心ちゃんは、簡単に里咲について行ってしまう。引き止められるはずがない。しょうがない、今日は里咲の機嫌が悪かったということだろう。しかたなく、独りで体育館に向かう。

 今日は、中学校では定番のドッジボール。受験生のストレス発散には、うってつけのスポーツだ。私は、スポーツが大得意ではない。しかし、里咲はスポーツ万能で、特にドッジボールでは、ギターを演奏する紗菜さんのような状態になる。つまり、彼女の右に並ぶ者はいない。紗菜さんは、ギタリスト歴十一年で、既にその腕は世界トップレベルと評されている。世界の名だたるバンドなどから、ぜひサポートギターに、という誘いが後を絶たない。それはさておき、それくらいに里咲は強いのだ。ボールを避けることなどないに等しい。外野に向かったボールでさえ、少し弾道が低ければ、高くジャンプしてキャッチする。そして、着地後、すぐに助走をつけて、女子が投げたものとは思えないような投球で、ダブルアウトもなんのその。そんな里咲が、私だけを狙って投げてきたなら、どうだろう。キャッチ?いや、以前やってみたが、あれは相当運が良くない限り無理だ。だから、かわすしかない。みんな里咲の味方だから、私の周りに誰も人はいない。狙われないのがわかっているのだ。みんなコートの端っこで、ボールから離れるようにちょこちょこ動いているだけだ。私は、真ん中でダイナミックに動き、十回くらい外野と里咲の間でボールが行き来したら、ついに当たってしまう。その間が、とても時間の無駄だと思うのだが。でもみんなの中では、それがドッジボールなのだ。

 今日も、「みんなのドッジボール」をして、私は心身ともにどっと疲れた。私にはストレスの溜まるスポーツだし、みんなももっと動きたいと思っているだろうに、里咲たちのせいで、普通のドッジボールができなくなっている。私がリンチにあっているのは見ていて面白いだろうが。だから、彼女らの二つの希望、「普通のドッジボールがしたい」と「橘 凛に酷い目に遭ってほしい」がどちらも叶うためには、私がこの命を絶つしかないのだ。もちろん、私には生きる意思がある。少なくとも、姉より先に逝く予定はない。一度外野に行けば、私は死んだも同然だ。飛んできボールは他の子に取られてもらえないし、甘いボールは全て里咲がキャッチする。

 さて、とりあえず、そんなこんなで体育は乗り切ったわけだが。大好きな学校、とは言ったけれど、本当は、大嫌いなのだ。昨日、病室で姉に会ってから、その思いが強くなった。だから、学校では一言しか話さなかった今日の放課後にも、私は音楽を聴きながら、病院に向かう。音楽を聴かないと、沈んだ気持ちをリセットできない。沈んだ気持ちで姉に会うのは、違う気がする。姉は、死の恐怖に怯えているかもしれないからだ。

『学校終わりました。そちらは終わりましたか?』

 星麗さんに連絡する。すぐに連絡が来ないので、まだ終わっていないのかもしれない。一応、高校に向かっておく。そして二十分後。

『遅れてごめんね。今、終わったよー』

 校門前で五分ほど待っていた時に返信が来た。そのまま待っていると、

「おつかれー、凛ちゃん!」

「こんにちは!」

 星麗さんは、ある人を一人連れて来た。

「この子が凛ちゃんね」

「こんにちは、紗菜さん!」

「あ、もう私のことは知ってくれてるんだ」

「はい、世界トップクラスのギタリストですから」

「ありがとう。でも、あまりその肩書きだけで自分を語りたくはないかな」

「またそんなこと言ってぇ。それだけで充分じゃん?」

「いえ、わかります」

 星麗さんと意見がたがうのは少し気が引けるが、自分の信念を通す。

「自分にとっては、自分ができるのはそれだけじゃないって思ってるのに、世間にとっては、それだけしか評価されない。ギターの腕だけを見られて、自分が見せたい他の良いところがその光に負けて、世間からは見えなくなっている」

「そういうこと。星麗、この子、すごい子だよ」

「そうだよ、凛ちゃんはすごい子なんだよ!」

「あ、わかってたんだ。で、本題はそれじゃないでしょ?もう誰が話ずらしたかわかんなくなってるけど」

「あ、そうそう!凛ちゃん、私たち、これから練習だから、蘭のところには行けなくて。だから、申し訳ないんだけど、これ、渡しておいてくれないかな?」

 いつかはこの日が来ると思っていたが、まさか二日目とは。しかし、覚悟はできている。

「了解しました!渡しておきますね!練習、頑張ってください!」

 私は、そう言った勢いのままその場から走り去った。

「ありがとーう!」

「凛さん、だっけ?あの子、おもしろいね」

「私もそう思う!」


 夕暮れを背に歩くのは、悪を倒した後の正義のヒーローでも、エンディングの時の勇者でもなく、やっぱりただの受験生・橘 凛であり、少し悲しくもなるが、星麗さんからもらったプリントを姉に渡すというミッションを受けたので、その使命感により進む。走るのはさすがに疲れたので、歩いて病院に向かっている。姉に会ったら、何の話をしようか。私には、勉強は教えられないから、世間話でもしようか。いや、テレビはあると言えど、隔離病棟の中だ。どこまでの情報が姉の元に届いているかわからない。それは、姉の性格を考慮に入れた結果でもあるが。昔と変わっていないならば、姉はテレビをほとんど見ないし、スマホに入っているアプリは、連絡用のもののみ。SNSや動画アプリに夢中な、里咲たちや、彼女らに従いっぱなしの下っ端女子たちには見習ってほしいものだ。それなら、姉には、「Alter-aisle」の素晴らしさを教えてあげようではないか。そんなことを考えながらいると、目的地というものは割と近くにあるものだ。眼前には、病院があった。

 隔離病棟、隔離病棟っと………。心の中でその言葉を唱えるだけで孤独感を覚えるが、気にしていても仕方ない。ようやく目当てのドアを見つける。逸る気持ちを抑えて、その引き戸を開けようとして、やめた。こんな所で、今日の訪問はやめようと思ったわけではない。ただ、

「八重葎 しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり、四十七番、恵慶法師えぎょうほうし

 なんて呟きが、私の行動のブレーキとなったのだ。百人一首でも暗記しているのかと思ったけれど、それ以降何も聴こえてこないので、恐る恐るドアを開ける。

「ハロハロー、お姉ちゃん!」

「あら、あなただったのね」

「もしかして、ドアの外にいることに気づいてたの?」

「ええ。集中していたから、わかるわ」

「さっき、なんで途中でやめたの?百人一首の暗記中じゃなかったの?」

「百人一首くらい、ここに来て二日で覚えたわ。今のは、自分の気持ちを、百人一首に乗せただけよ」

「どういうこと?」

「さっき詠んだ、と言っても恵慶法師のものだから引用しただけなのだけど、あれは、意味が今に合っていたから」

「なるほど、意味ねぇ」

 姉の言うことが、私にもわかるのは、私もよくそうしているからだ。落ち込んだとき、ネガティヴな歌詞ながらも自分を励ましてくれるような歌を、歌ったり聴いたりすることもあり、悲しみに溺れそうになったとき、雰囲気がどこか悲しげな歌を歌うこともある。

「私の言っていることが、わかるかしら?」

「うん、とっても。あ!」

 不思議そうに首を傾げる姉を前に、鞄からプリントを出す。取り出したものが何かわかると同時に、姉の顔は、晴れやかになった。といっても、その変化は少しだけ、であるが。

「はいっ!」

「ありがとう。それにしても、今日は星麗、来ないのね」

 私だけでは、不服だっただろうか。

「そうなの。私、来ない方が良かった?」

「いいえ。そんなことを言ったつもりは毛頭ないわ。むしろ、来てくれて嬉しい」

 久しぶりに、他人を喜ばせたかもしれない。もちろん、悦ばせたことはほぼ毎日のようにあるが。

「ありがと。今日はね、見舞い品?持ってきてないの。ごめんね」

「いえ、いいのよ。プリントを渡しに来てくれただけなのね?」

「ううん、そうでもなくて」

 少し驚いたような顔をする姉の、その眼を見て。

「これ、聴いてほしい」

「これ………って、何?つければいいの?」

 無言で頷く。そのリアクションを見た姉は、少し不安そうにイヤフォンをつける。それを確認してから、スマホを操作して、「Alter-aisle」の『My Voice』を流す。今頃、姉の耳には、星麗さんの透き通るような歌声や、紗菜さんの胸に響くような音色が届いているはずだ。


 もうすぐ、サビの頃だろうか。ずっと、姉の表情を観察しているが、流してすぐに思い詰めた表情になったきり、変化はない。と、その時だった。静かに、本当に静かすぎる程の隔離病棟の中で、それは起きた。姉の瞳から、水の粒が出て、頬を伝って、シーツに落ちた。その現象は何度も続いた。十滴目、姉は奥歯を噛み締めた。二十四滴目、姉はシーツを握り締めた。四十一滴目、姉は掛け布団に顔を埋めた。何滴目かもわからなくなって、姉は、ついに我慢しきれなくなって、声を上げた。

 あの姉が。何があろうとも泣かなかった、あの橘 蘭が。音楽一つで、こともあろうに嗚咽混じりに、哭き続けているのだ。『My Voice』は、確かに、聴くだけで涙が頬を伝うような曲だ。しかし、私でも、初めて聴いた時に声を上げて泣くなんてことはなかった。一体何が、彼女にあったのだろう。

 それは、私にはわかり得ないようなことなのだろう。


 翌日は、特に何事もなく進んだ。美心ちゃんに挨拶して、授業を受けて、放課後は、新しいイヤフォンで音楽を聴いて。なぜ新しいのかという質問は、誰かしてくれる人がいるわけでもないが、答えておくと、昨日姉にあげたからだ。今頃、スマホに音楽を入れて、聴いていることだろう。私も、『My Voice』を聴いてみることにした。聴けば、少しは姉の気持ちがわかる気がして。

 キーボードが鳴り始める。寸分の狂いもない、習子さんの音色。ギターが重なる。バンドということを意識した、目立ちすぎない紗菜さんの音色。その二人の土台に、星麗さんの歌声が乗る。

「♪独りで考えてた 暗闇の中

  届かない私の声 響かせたいの

  それでも みんな 私を忘れて

  平和な 世界 歯車は回る」

  サビ前。ここで初めて、唯希さんのドラムが響き始める。

「♪どれだけ想ったって どれだけ悩んだって

  私は障壁の向こうに 独りぼっち

  溢れる勇気もなくて 世界に憎悪もなくて

  誰も知らないところで 私は生きる」

 そうして、気づいた。この曲は、姉のための曲なんだと。思えば、『My Voice』がリリースされたのは、今年の八月で、それは、六月に引っ越してきた姉と、星麗さんが、すぐに出逢ったとすれば、時系列が一致する。だから、自分のための曲だと気づいた姉は、普段はどんなことがあっても泣かないくせに、音楽もほとんど聴かないくせに、泣いたのだ。

 私の頬にも、涙が、流れた。


 病院に着いたのは、『My Voice』がひと通り終わってからだった。静かに、その隔離病棟のドアを開ける。そこには、姉はもちろん、星麗さんと、紗菜さんがいた。

「あ、凛ちゃ………どうしたの、涙流して?!」

「あの、本当に恥ずかしいんですけど………『My Voice』聴いてたら、止まんなくなっちゃって」

「ありがたいことね。私たちの歌を、そんな風に聴いてくれるなんて」

「そういうことだったんだ。ちょうどさっき、蘭と『My Voice』の話、してたんだ」

「さっき聴いたのね、凛。もしかして、いえ、その様子ならば、あなたも知らなかったのね」

 知らなかった、というのは、『My Voice』に秘められた想いのことだろう。

「そう、なんだ。お姉ちゃん、あとは何聴いた?」

「あとは………『Twinkle Stars』と『Ultimist《アルティミスト》』と『Vega』と『White Theory』………くらいかしら」

「す、すごいハマってるね………」

「嬉しい限りだよ、私たちは。ようやく、蘭にも私たちの想いが、届いたんだもん」

「そうね。蘭は、どんな感じの曲が好きなの?」

「私が好きなのは、やっぱり『My Voice』だわ。音楽を聴いて泣いたのは、あれが最初だし、今の時点では最後だもの」

「私のギターも聴いてほしいな。『My Voice』は、ヴォーカルを全面に押しだしてるから、他の楽器はあんまり鳴らせないんだよね。まぁ、ダメな曲とは言わないし、逆にそれが素晴らしいと思うんだけどね」

 後半は、作曲者の星麗さんに対しての配慮だろう。

「例えば、何?」

「うーん、そうだな………一番目立つのは、『Ultimist』かな」

「私もそう思う………ってか、自分が作ったんだから、自信持って言えるよ。あれが一番、紗菜に目立ってもらいたくて書いた曲だよ!」

「そうだったんだ。なんか、私たち、蘭とか凛ちゃんを通じてしか、自分たちの本当の気持ち、伝えられないね。ダメだなぁ、私たち」

「言われてみれば、そうだね。練習終わりとかにも、こういうの増やしていかないと!」

「なにか、変化をもたらせたようで良かったわ。『Ultimist』ね。後でもう一度聴いてみるわ」

「うん、よろしく!」

 それから、また勉強会が始まった。紗菜さんは、星麗さんよりも勉強ができるようで、なんでも出来る紗菜さんは羨ましい限りだと思わざるを得なかった。


「あ、もう、こんな時間!帰らなきゃ!」

「そうだね。凛ちゃん、帰る?」

 そう言えば、もう帰る時間だった。

「あ、はい。じゃあね!」

「えぇ、またね」


 病院を出ると、私たちは閉ざしていた口を開いて、話し始めた。

「まだ五時過ぎたばっかりなのに、もう暗いね」

「もう、秋だもんね」

「そうですね」

 女子ならではのSNS確認は欠かせない。ただ、私に関しての投稿なんて、良い事なんてもちろんないし、悪口だって、書いているのが時間の無駄だとちゃんと知っているらしく、度を超えた馬鹿たちを除いてほとんど何も無いのだが。

「星麗、またSNS?ほどほどにしておいたら?」

「いーじゃん。ほら、凛ちゃんだって見てる」

「はい。気になる投稿があったので」

 今日は、少し違った。SNSと言うよりは、悪口を書き込むサイトだが、見るからにエスカレートしている。もう、これはいじめなのではないだろうか。それでも、そうと認めたくない自分がいる。

『RT、いつも下校中音楽聴いてて気持ち悪い』

『しかも、あいつが聴いてるの、「Alter-aisle」だろ?もう俺聴かない』

 ショックだった。自分がそんな風に書き込まれていることよりも、「Alter-aisle」を聴く人が少なくなることが。RTとは、橘 凛のイニシャルだろう。それにしても、どうやって知ったのか。私が教えたのは、たった一人だったはずだ。そして、彼女はそんなことをしないと、信じていたかった。でも、もう信じられない。

 もう、クラスの誰も、信じられない。

「どうしたの?凛ちゃん、すごい顔だよ?」

「いえ、なんでもありません。ちょっと疲れてるのかもしれません」

「そう?何かあったら、言ってね!」

「はい。ありがとうございます」

 バンドで忙しい彼女らに、さらに荷物を持たせる訳にはいかない。私は、彼女らのエンジンにはなれど、足枷になってはいけないのだ。

 その後は楽しい話をしたが、私にはしっかり聞く余裕などなかった。


 不意に目覚める。双眸は冴え、涼しい空気が私の頬をさする。いい朝だ。ただ、こんな朝に目覚めながら、気分が悪い。今日は、どうすればいいか。鑑 美心に、挨拶すべきか。いや、きっと、もう返してくれない。というより、返してほしくなんかない。もう、信じないのだから。

 清々しい朝。歩くスピードも、自然と早くなる。下駄箱についた私は、驚いた。上靴が無いのだ。なるほど、始まった。きっと、昨日のあの投稿が、きっかけとなったのだ。友野 里咲。こんなことをするメリットなど、どこにあるというのか。どうせ、トイレにでもあるのだろう。

 案の定、そこに上靴はあった。ただし、ズタズタに引き裂かれた「Alter-aisle」のポスターと共に。視線を感じるが、振り向く気力もない。憎悪、それしか無かった。

 逃げたくはなかったが、吐き気が何度も押し寄せてきたので、やむを得ずに早退した。両親は仕事で忙しいので、歩いて帰ると言った。涙を流すことはなかった。

 勉強ができなくなってきたから勉強がしたい、これの何がいけないのか。その答えは、里咲しか知らないのだろうか。

「あら?凛ちゃん?」

「あ、凛ちゃんだ!」

「え、みなさん、どうしたんですか?!」

「今日からテストなんだ。だから、午前中で終わり。凛ちゃんも………って感じじゃないね。どうかしたの?早退?なら、車で迎えに来てもらうのが普通だよね………」

「あ、あの………」

「ほらほら、星麗、凛ちゃんが困ってる」

「あ、そうだね。話なら、聞くよ?」

 今わかる限りの全てを話した。初対面の、黎華さん、唯希さん、習子さんにも。この話を聞いて、最初に口を開いたのは、星麗さんだった。

「学校には、行こう」

「え?」

「学校には行かなきゃ。絶対に、負けちゃダメ」

「あと、凛ちゃん、だっけ?初対面だけど、星麗から話には聞いてる。えっと、今は、耐えるの。私は、五歳の時からずっと、家のピアノを弾いてて、それでも、全然上手くいかなかった。曲が弾けるようになったのが、八歳の頃。私は、生まれながらにそういうことが苦手なみたい。でも、ある日、それまでできなかったことができるようになったってことが、今までに何回かある。それはね、挑戦したからだと思うんだ。五歳の時からの挑戦があったからこそ、今、こうして、『Alter-aisle』の帷 習子でいられる。だから、今の自分に、将来後悔しないように、今、耐えて、いつか変わる時まで、諦めちゃダメ」

 星麗さんや習子さんの言葉を聞いて、初めて涙は流れた。涙とともに、吐き気もどこかへ流れた。

「そう、ですね………頑張ります」

「また何かあったら、私たちが聞くから」

「ありがとうございますっ」

「今から行く?蘭のとこ」

「ごめん、私、バイトある」

「オーケー唯希、習子は?」

「今日は塾行かなきゃ。ごめんね」

「はぁー、そっかぁー。黎華は?」

「それがね………行けちゃうんだなぁ」

「おぉー。紗菜は訊くまでもないよね」

「何、その扱い」

「紗菜は優秀だから塾なくて大丈夫ってこと!あと、バイトもやってないから暇そうだし」

「一言多い!行くけどね」

「さぁて、凛ちゃんは?よかったら、行く?」

「はい!」

 彼女達のやり取りを見ていると、いくらか元気が出てきた。


「ハロー、蘭!」

「あら、星麗。来たのね………って、連れて来すぎじゃないかしら?」

「悪かった?」

「まぁ、蘭も病人だしね」

「そこんとこ考えらんないとこが星麗らしいよねー」

「絶対ディスられてるよね、それ!」

「あ、あはは………」

 いつもの事だが、彼女らの会話についていける人などこの世界に存在するのかと、疑問に思ってしまう。

「楽しそうね。でも━━━」

 そういう姉も、楽しそうに見守っている。

「でも、凛だけは、違う風に見える」

「え?」

「えっと、『Alter-aisle』は、今日は練習あるの?」

「あるよ。一時間くらい後に」

「なら、『Alter-aisle』が行った後に二人で話そう」

「う、うん」

「蘭はなんでもお見通しなのね」

「えぇ、まぁ」

 そう言って、名探偵蘭お姉ちゃん━━━何か思い当たる節があるが━━━は、微笑する。そして、私は初めて、姉がスマホを触っている姿を見た。その後、ある曲が流れてきた。

 痺れるようなエレキギター。この世界の法則を全て無視したような、そんな神気を纏った音色だった。私には、いや、今ここにいるみんなに、聴き覚えがあるはずだ。

「『Ultimist』………」

「えぇ。あれからもう一度聴いてみて、もっと好きになったわ」

「なんか、恥ずかしいな」

「客観的に聴いても、やっぱりすごいなぁ、紗菜」

「そーそー、紗菜がいないと『Alter-aisle』は成り立たないからねー」

「それはみんなに言えることじゃない?」

「あー、良く考えてみれば、そうだねー」

「♪迷ってた 出せない答え 探し求めてた

  複雑な 心抱えて 走り続けてた

  『このままでいいの?』 問いが増えてく

  『そのままでいいよ』 誰かが言ってる

  Ultimist! Ultimist! 誰が 何と 言おうと

  全力! 疾走! 変わら ないと 言えるよ

  Ultimist! Ultimist! ありが とうと 言いたい

  私に 私で 存在させ てくれ たことに」

 紗菜さん以外、全員の心象が、リセットされたような、そんな気がした。紗菜さんはといえば、少し顔を赤らめていた。

「そう、だね。変わらないでいい。私達も、蘭も、凛ちゃんも」

「えぇ。私は、この生活が変わってほしくないわ。どうせ症状は悪化するしかないのだし、それに、みんなが来てくれる」

「蘭、良いこと言うじゃーん」

「症状が悪化って、どんな病気か詳しく聞いたことないけど、そんなに悪いの?」

「えぇ。もう、回復はないみたい。奇跡がない限り、ね」

「そう。それは━━━」

「━━━起こるといいね、奇跡」

 紗菜さんの言葉を遮って、星麗さんは言った。それには紗菜さんも、姉も驚いていた。そして、少しの静寂のあと、姉は言った。

「そうね。いえ、起こしてみせる。だって、学校行きたいもの」

 そうなのだ。学校に行きたくても行けない姉がいるのに、自分はなんて勝手なんだ。行ける身体があるのに、行かないでおこうと思っていたなんて。

「よし。じゃあ、今日も、星麗先生講座始めよっかー」

「私は紗菜先生を所望するわ」

「ひどっ!」

「まぁまぁ、私もいることを忘れないでねー」

「黎華、どれくらい勉強できるの?」

「うーん、平均くらいー?」

「やっぱり、紗菜先生を所望するわ」

「やっぱダメかぁー」

 彼女ら、「Alter-aisle」の会話についていける人物は、案外近くにいたことに気づいた。


 「Alter-aisle」が練習に行った後、病室には当然、姉と、私だけが残った。

「さて、私は忘れてないわよ。どうしてあの時あんな感じだったのか、説明してもらえるかしら?」

「わかった」

 そして私は、本日二回目の事情説明をした。その後に姉から発せられた言葉は、完全に予測不能なものだった。

「━━━その憎悪に、理由はあるの?」

「━━━っ!」

 憎悪に、理由?考えたことも、ましてや元から理解していた経験もなかった。

「理由がない感情なんて、棄ててしまった方が楽よ。例えば、私だって、この病に憤怒を抱えていたって、しょうがないじゃない。なんで怒っているの?なんて訊かれて、治りようのない病だから、なんて、そんなやり場のない怒りなんて、棄てた方がいいと思わない?」

 よくわかる。それを聴いて、本当に憎悪は消え去った。こんないじめ、相手にしてる方が哀れだ。

「寒風に 吹かれよ病 の憎悪」

「それ、今作ったの?」

「えぇ。どうかしら?」

「すっごくいい!ありがとう!」

「喜んでもらえて嬉しいわ」

 時計を見る。もう、行かなくては。

「あら、もうこんな時間ね。帰る?」

「ごめんね、本当はもっといたいんだけど」

「気にしていないわ。また会えるって、わかっているもの」

「そうだよね。じゃあね!」

「えぇ」

 そして、私は、「私たちの隔離病棟」を去った。


『そういや、あいつ、病人の姉がいるらしいぞ。俺の兄がクラスメイトでさ』

『「Alter-aisle」のメンバーと一緒に歩いてるのを見た。病院へ向かっていったよ』

『隔離病棟にいるらしいな。最近、毎日行ってるっぽいぞ』

『何それ、勉強してないじゃない。あいつ、勉強したいからってウチらと絡まないんじゃないの?』

『ほんとだな。クズじゃん、あいつ』


 散々に言われている。でも、知ったものか。明日、私の上靴がどうなっていようと、私は気にしない。「Alter-aisle」が何と言われようと、私は、気負わない。どうせ、そう言っても聴く人は聴くし、聴かない人は、本当は好きじゃなかったのだ。そうやって、憎悪を変えていけばいい。

 それから私は、深い眠りに落ちた。


 目を覚ます。うん、気分は悪くない。これなら、今日はちゃんと、放課後まで学校にいれる。朝ごはんを食べ、着替え、家を出て、歩く。雨が降っているので、傘を差しながら。気分は良好ながらも、これでは少しぼーっとしてしまう。二十数分後。傘は、傘立てに置いておくと折られかねないので、折りたたみ式の傘にした。

 傘の露を落とし、下駄箱を見る。やはり、無い。また、あの場所か。トイレに行く。しかし、無い。どこだ。そろそろ、チャイムが鳴る。教室に行く。ごみ箱、無い。掃除用具箱、無い。クラスメイトの顔を見渡しても、誰も持っている様子はない。というより、私の持ち物なんて、触りたいとも思わないだろう。諦めて、窓際の自分の席に座り、土砂降りの外を見やる。

 ん?

 一瞬、目を疑った。グラウンドの、真ん中。そこに、私の上靴はあった。そこで、チャイムは鳴った。


 あれから、次の休み時間に、走って取りに行き、教室からのクラスメイト達の視線を感じながら、でも見上げずに、また走って戻って、ずぶ濡れで教室に入り、先生に怒られ、散々な四半日を送った。

 幸いタオルは持っていたものの、明日は風邪をひいてしまうかもしれない。そんなことを考えながら雨の街を下校していると━━━

「大丈夫?また何かあった?」

「いえ、今日は、上靴がびしょ濡れになってただけなので、大丈夫です」

「それは大丈夫じゃない気がするけど………」

「いえ、もう何があっても、気にしません」

「強いね、凛ちゃん」

 私はいつの間にか、あの隔離病棟にいた。星麗さんと、紗菜さんと、唯希さんがいた。

「君待ちて 風の吹き入る 病床の 紅葉の如く 我が心燃ゆ………というか、今日も多いわね。連日こんなに来たのは、初めてかもしれないわ」

「そうかもね。ねぇ、その短歌の意味を教えて?」

「意味って………あまり言いたくないけど、そのままよ」

「そうじゃなくて、『君』って誰?」

「『君』は、みんなのこと。星麗も、紗菜も、黎華も、唯希も、習子も、もちろん、凛だってそう」

「私も?!」

「えぇ。私は、みんなを待ってる。この、窓から入ってきた、紅葉の葉と同じくらいに、心を燃やして、ね」

「なるほどー、やっぱりすごいね、蘭は」

「いえ、そんなこともないわ。さぁ、今日も勉強を教えてもらえるかしら?特に、紗菜先生にね」

「一応、私もいるからね?!」

「まぁ、どちらでもいいわ。始めましょう」

「紗菜まで?!」

「ふふっ」

 三人のやり取りが面白くて吹き出してしまう。

「ねぇ、凛ちゃん、こっちこっち」

「なんですか?」

 唯希さんに連れられて、病室を出る。

「あのね、言いたいことがあって。えっと、固い意志があるのは、素晴らしいと思う。でも、それが重荷になることもある。私は、自分だけのドラム演奏をするんだ、っていうのを、馬鹿みたいに思ってたの。そしたら、『Alter-aisle』のみんなと音が合わなくなっちゃって。それでも、私はそれを曲げなかった。そのせいで、『Alter-aisle』はバンド練習ができなくなってしまった。その時は、私が謝って、バンドのこともっと考えるようになれたから、ここまで来れたけど、私は、凛ちゃんを心配してる。だって、どこからどう見ても、いじめだもん。いつか、死んじゃうんじゃないかって。ひょっとしたら、蘭より先に。ごめんね、縁起の悪い話して。話を戻すと、その意志は、強い。強いけど、それが原因で、他のことが折れちゃったら、凛ちゃんはどうする?って言いたかったの」

 習子さんといい、唯希さんといい、「Alter-aisle」のメンバーは、よく私を心配してくれるし、すごくいい話をしてくれる。

「ありがとうございます。そう、ですよね。柔軟に、でも芯は強く。いける気がする」

「よし、オッケーだね。じゃあ、戻ろっか。ありがとね、私の話聞いてくれて」

「いえ、すっごく、役に立ちそうです」

 その金曜日に心に残ったことは、それくらいだった。


 土曜日。特に何もすることがなく、今日は母が、姉に話があると言うので、一緒に行きたいと言ったのだが、断られた。本当に大事な話だそうだ。午前中には終わると言うので、午後から行くことにする。


 金曜日、凛たちが帰ってから、母が病院の先生と相談をしていた。土曜日の朝も、いつも通り、私は注射を何本も打たれた。しかし、仕事で戻らなければいけないはずの母が、一向に戻らない。二時間、三時間、もっと長い間、ずっと隔離病棟のスツールに座って、文庫本を読んでいる。ついに、その読みにくそうな本を読み終えた母は、痺れを切らして医師に訴えかける。

「あの、まだ死なないんですけど、どうなっているんですか?」と。

 私は、絶句した。あの注射が、いつもより一本多かったことに、気づいたのは今さらになってしまった。

「死………ぬ?」

「お言葉ですが、橘さん。私は、お受けするとは言ったものの、やはり、医師です。患者さん優先です。いくらお金を積まれようと、やはり、患者さんの意志を聞かずに命を奪うようなことは、出来ません。お金はお返しします。それと、あなたに、母親をやる資格はありません」

 母は、その場に崩れ落ちた。彼女に対して、怒りはなかった。失望と、呆れしかなかった。

「ごめんなさい、蘭。私は、自分のために、あなたの命まで………」

「ここまで育ててくれたこと、とても感謝しています。でも、もう、二度とここに来ないでください。親に殺されるくらいなら、病院のモルモットとして、医療の進歩に役立ったほうがましです」

 母、いや、その女性は、娘のいやに他人行儀な言葉に、へたり込んだまま、這って隔離病棟から出ようとする。

「一つだけ、訊きたいことが」

 女性は、何も言わず━━━何も言えずに、振り向く。

「父は、あなたの計画に、関わっていますか?」

 首を振った。よかった、ノーだ。

「ありがとうございます。では、金輪際、さようなら」

 そして、娘の殺人未遂の罪を抱えた女性は、立つことも忘れ、病院の床を這いながら、去った。


 母が帰ってきたと思ったら、何も言わずに父の職場の方に車で向かったので、ゴーサインとみて、あの病棟に行った。

「あら、来たのね」

「お母さん、どうしたの?帰ってきたと思ったら、お父さんの職場に行っちゃったけど」

「母親?あなたにはいるかもしれないけれど、私にはいないことにするわ」

 そうして、姉は午前中にあったことを、話してくれた。


 注射は、栄養分の注射だったらしい。だから、安全だということだ。姉が死ななくて、本当に良かった。

「君がため━━━」

「━━━春の野に出でて 若菜摘む?それくらいなら知ってるよ」

「いいえ、違うわ。もう一つの方よ」

「もう一つ?」

「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな、五十番、藤原義孝」

「どういう意味なの?」

「ほとんどそのままよ。あなたなら………いえ、やっぱり、高校の古典を習っていないと無理かもしれないわ。まぁ、教養を深めるためにも、もっと調べなさい。せっかく、スマホがあるのだから」

「はぁい」

「それで、何の用だったの?私の話で切ってしまったわ」

「あー、用は特にないんだけど、お姉ちゃんと一緒に、音楽でも聴けたらなぁって思って。でも、そんなことがあった後だから、嫌だったら帰るけど」

「いえ、嫌じゃないわ。何を聴くの?」

「えっと、じゃあ、『Twinkle Stars』」

「じゃあ、私がかけるわ」

「ありがとう」

 流星群を想起させるような、習子さんのキーボード。紗菜さんのエレキギターは、それを際立たせる。黎華さんのベースが、広い宙に想いを馳せさせる。そして、星麗さんのヴォーカル。

「♪夕焼けの後の 群青の空

  光り始めたよ 一番星が」

  唯希さんのドラムが、急にビートを刻む。壮大ながらも、澄んだ躍動感が、私の胸を打つ。

「♪誰かが夜空を 見上げたことが

  私にも上を 向かせたんだ

  私たちは いつもいつだって

  あの夜空の トライアングルみたいに

  繋がってるんだ 繋がれてるんだ

  何があろうとも

  星が降るんだ 降り続けてるんだ

  アルタイルとヴェガと デネヴのように」

 ちゃんと最後まで聴いてから、余韻に浸り、そして、いつの間にか上を向いていた顔を、姉に向ける。そして、姉は、やはり━━━

「━━━泣いてる」

「えぇ。だって、最高の歌しか作らないんだもん、星麗」

「今の、録音しておけば良かったなぁ」

「やめて、恥ずかしい」

 それから、色々な話をした。時を忘れて。


 そう、文字通り、時を忘れて、面会時間ギリギリまで。

「綺麗な月ね」

「そうだね」

「名月や 澄んだ光も 消せぬ病」

「やっぱり、悲しい句だね」

「それでも、生きてることには感謝してるわ」

「お姉ちゃんなりの死生観なんだね」

「それでも、私の想いが届くのなら」

「ん?」

「私は、最期をあそこで迎えたい」

 姉が指差すのは、暗い中にあって存在感がまるで無い、姉が在籍している学校だった。

「高校?」

「えぇ。まぁ、中学校でもいいけどね」

 姉の冗談に、笑えない私がいた。

「もうそろそろ、面会時間が終わってしまうのではないかしら?」

「あ、そうだね。じゃあね!」

「えぇ、また、絶対」

 手をひらひらと振って対応。また会えるって、わかっているから。理性ではなく、これほどまでに理性に溢れた人間にもまだ残っている、本能が、そう教えてくれる。それでも、悲しいことは悲しいのだが。

 そして私は、私に私で存在させてくれる唯一の楽園━━━こんなことを言ったら怒られるかもしれないが━━━を出た。


 日曜日は、ものすごく暇だったので、あのサイトを見ることにした。


『あいつの姉って、重病なんだろ?』

『そうらしいね。ほんと、学校来ないでほしいな。伝染るかもしれないから』

『だよな。あんなやつ、「Alter-aisle」みたいな世界的バンドに、近づくんじゃねぇよ』


 何とか、「Alter-aisle」への飛び火は免れたようだ。それだけで、充分だった。たとえ私が、何と言われていようと。帰りに聴かなくなったのは正解かもしれないと思った。

 宿題をしていなかったので、それを片付けた。それでも、まだ時間は潰しきれない。なぜ姉のところに行かないのかと言うと、今日は、大事な検査があるらしいからだ。これは父から聞いた。

 それからは、「Alter-aisle」の曲を聴いた。

「♪独りで考えてた 暗闇の中

  届かない私の声 響かせたいの

  それでも みんな 私を忘れて

  平和な 世界 歯車は回る

  どれだけ想ったって どれだけ悩んだって

  私は障壁の向こうに 独りぼっち

  溢れる勇気もなくて 世界に憎悪もなくて

  誰も知らないところで 私は生きる」

 何か、すごいことに気づいた気がする。それを姉や星麗さん達に伝えたくて、心が躍って、ますます明日が待ち遠しくなった。


 そして、月曜日。またあいつらと同じ空気を吸うのかと思うとゾッとするが、学校へは行くしかない。星麗さんと約束したのだから。

 今日は、上靴があった。本当に、教室に着くまで、何もなかった。教室に着くまでは。

「ちょっと、あんた」

 私は呼ばれていない。呼ばれるわけが無い。なぜなら、声の主は、里咲だからだ。だから、止まらずに自分の席へ。

「あんただよ、橘!」

 橘?変だな。橘なんて苗字、このクラスには私一人しか━━━そう思った瞬間、私は、いや、正確には私の服は、掴まれていた。

「何?里咲は私には用がないはずなんだけど」

「なに勝手に他人のこと決めつけてんの?まぁ、いいや。あんたと言い争っても無駄。用件は一つだけ。それも、あんたの人生の中で最後」

「へぇ、それは嬉しいねぇ。それで、用件って?最後なんだったら、里咲の顔に絵を描いたり、里咲のシャー芯全部折ったりとかならなんだってやるよ?」

「そんな危険なことしなくても、この学校の屋上から、飛び降りるだけでいい。どう?」

 私は絶句した。つまり、自殺しろと?私の心の声を聞いたかのように、里咲は言った。

「そう、自殺。まぁ、あんたに選択肢はない。あんたを除いたクラスメイト全員の手にかかれば、教師も警察も介入させず、実行に移せる」

 憎悪が込み上げる。生きたくても生きられない人だっているのに、生きられる人が死にに行く?馬鹿げている。ふざけるな。

 でも、この憎悪の理由は何だ?そう考えると、馬鹿げていたのは自分だと、簡単に気づけてしまった。そうだ、死ねばいいのだ。死ねば、この、私を取り巻くクラスメイト達は全員救われる。私をいじめて、日々悪事を働いて心を痛めることは無くなる。それでいいのかもしれない。

「わかった」

 里咲が目を細める。

「ただ、死ぬ日くらいは決めさせてもらってもいい?」

「一週間以内ならいつでも」

「それなら、明後日の放課後、午後五時」

「えぇ、それでいいわ。みんな、聞いた?水曜日の放課後、五時だって!」

 それきり、その日はクラスメイトとは話さなかった。


「いいねぇー、凛ちゃん。なんか、吹っ切れたみたいな顔してるー」

「そうですか?」

「うんうんー。私も吹っ切れたいなぁー」

「あ、そうだ!みなさんにちょっと話したいことがあって」

「え、なになに?」

「あの、『My Voice』なんですけど………私の境遇にも似てるなぁと思って」

「ほんとだ!よく気づいたね!」

「でも、ここまで来ると、バーナム効果じゃない?」

「そんなこと言われてもわからないよ、紗菜ぁ!」

「誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまう心理学の現象のことだよ」

「ちょっとだけわかったかも」

「まぁ、私は元から知ってたけどねぇー」

「そうかもしれないですけど………」

「うそうそ。そう思ってくれてありがとう、だよね」

「というか、なんだかメンバーが固定されてきていないかしら?」

「そうだね。今のところ、私と星麗と黎華と、凛ちゃんばっかりだ」

「そうですね」

 唯希さんや習子さんはどうしたのか。

「でも、唯希は最近バイトで忙しいらしいし、習子は生徒会もやってるからね。来れないのはしょうがないよ」

「そうなんですね」

「私は暇だっていう訳じゃないけど、蘭のために来てるんだからねー」

「誰も暇だからっていう理由では来ないよ」

「ありがとう。ところで、今日は何を教えてくれるの?」

「ふっふっふ………とりあえず━━━私、みんなの分のポリじゃが買ってきましたぁ!」

「申し訳ないから、代金払うね」

「私は奢られておこーかなー」

「私も払います」

「ごめんなさい、ここには財布ないの」

「いいよいいよ、私の奢り。黎華は、もうちょっと日本人の謙虚さを身につけてよ?」

「だいぶ謙虚なんだけどなー」

「ということで、それ食べながら勉強しようか」

「わかったわ。ありがとう、星麗」

「まぁまぁ、感謝はいいって。いただきまーす」

 こうして、もう何度目かわからない講習が始まった。今日のポリじゃがは、じゃがバター味だ。高校のことがわからないので、それを食べながら音楽を聴きながら、時間を潰した。


「いやー、楽しかったー」

「そうだね」

「もう、紗菜に教えてもらうことばっかりだよぉ」

「もう少し勉強頑張らないとねー、星麗先生ー」

「否定できない………」

「あ、もうすぐ分かれ道だね。私と紗菜はこっちで、黎華は向こうなんだけど、凛ちゃんはどっち?」

「私は、黎華さんの方です」

「そっかぁ、じゃあ、ここでお別れだね。バイバイ、凛ちゃん、黎華!」

「さよなら」

「ばいばーい」

「さようなら!」

 こうして、私と黎華さんは、二人きりになった━━━彼女の思惑通りに。


「いやー、いい天気だねー」

「いい夕焼けですね」

「夕焼けってことは、明日も晴れかー、いいねー」

「そうですね」

「明日も夕焼けだといいなー。そうすれば、明後日も晴れるのにー」

「あの、何か私に、訊きたいことでも?」

「バレたかー、バレちゃったかー。バレたなら、もう言っちゃおー。今日、吹っ切れたみたいな顔してたじゃーん?」

「はい」

「それがさー、私には、自殺を決意した顔に見えちゃったりしたんだよねー」

 一瞬、息が詰まる。そして、だんだん、呼吸が荒くなる。隠し通さなければ。

「そう、ですか?」

「一つだけ、言わせてもらっていーい?」

「はい」

「命は、大事なもの。そう思っていても、その大事さを過小評価する人が多い。私は、人を殺した人を見た。自分を殺した人を見た。そして、この世界が嫌になって、自分を殺そうともした」

「あっ………」

「そして、自殺を決意した日の朝に、鏡を見た。そしたら、いやに凛とした顔になってて。今も眼に焼き付いて離れないその表情と、今の凛ちゃんの表情が、そっくりだったから、訊いてみたってことよー」

「そう、なんですね………」

 驚いた。今の話にも、黎華さんの雰囲気の真剣さにも。

「でも、今はこうやって生きてる。だから、凛ちゃんも、生きよー」

「はい」

 そうは言ったものの、約束してしまったものは仕方ない。


 火曜日。学校生活は、不安になるくらいに何もなかった。そして、放課後。

「あら、今日は黎華がいないのね」

「そうだよ。黎華ったら、勉強する、とか言って帰っちゃうんだから」

「ここでも勉強できるのにね」

「あら、紗菜はまだいてくれているのね。助かるわ」

「ありがとう。その期待に応えるよ。ということで、勉強会しよう」

「賛成!」

「えぇ」

 その間、悪口サイトでも確認しておこうか。


『明日、RTが自殺しまーす』

『いいねぇー』

『それを記念して、今日はバンバン悪口書き込んじゃおう!』

『まずは俺から。あいつ、スマホ持ってきてるだけで、校則違反してるアピールしてくるんだが、めちゃくちゃウザい』


 などなど、意志が折れそうになって、気分が悪くなってきたので、見るのをやめた。と、紗菜さんがこちらを見ている。

「どうしましたか?」

「凛ちゃん、私は、凛ちゃんに悪口サイトのことを聞いてから、そのサイトを探してて。日曜日、やっと見つけたの。それで、昨日も見たんだけど………すごい数の誹謗中傷だね。私、『凛ちゃんはそんな人じゃない!』って、返してしまいそうになった」

「それは、嬉しいですけど、やめてください。私、『Alter-aisle』には、迷惑かけたくありません」

「そう思ってると思って、しなかったけど、やっぱり、凛ちゃんはあそこに書かれているような人じゃないと思う。みんなにも、知ってほしいな。友達より勉強を優先する凛ちゃんじゃなくて、何よりも蘭や私たちを優先してくれる凛ちゃんを。その気になれば、友達だって、そうなるかもしれないぞっていうことを」

「ありがとうございます」

「紗菜ばっかりいい話してるから、私もいい話しよっと」

「え、なんですか?」

「あのね。『Alter-aisle』の語源、知ってる?」

 それくらい、私でも知っている。小学校の理科でも習う。

「鷲座の、アルタイルっていう一等星じゃないんですか?」

「読み方はそうなんだけど………実は、書き方には違う語源があって。まず、『Alter』っていうのは、英語で『変える』っていう意味で、私たちが日本の音楽を、いや、世界の音楽を変えていくっていう決意なんだ」

「じゃあ、『aisle』は?」

「英語で、『列』。真っ直ぐに進むって意味だよ。あと、アルタイルは、アラビア語で『飛翔する鷲』っていう意味。すごく前向きでしょ?」

「はい」

「だから、凛ちゃんも、ファンとしていてくれるなら、前向きに、生きてほしい」

 でも、できない。明日、私は死ぬのだ。しかし、この事実は言ってはならない。

「わかりました」

「よし。もう大丈夫、紗菜?」

「うん。さぁ、勉強続けよう」

 そして私は、音楽の世界にまた入った。


 水曜日。私の命日。今日も話しかけられることもなく、平和な最後の学校生活が幕を閉じようとしている、放課後。最後に姉に会っておこうと思っていると、

「どこへ行くの?」

 私じゃない。里咲は私には話しかけない。

「あんたよ、橘」

「私?私なら、姉がいる病院に行くわ」

「どうして?そう言って逃げようとするのを、私が止めないとでも?」

「ええ。それなら、ついてきてもらえばいいんだもん」

「嫌よ。あんたについて行くくらいなら、ここで待つわ。でも、もし、戻ってこなかったら━━━」

「戻ってこなかったら………?」

「━━━橘家で殺人事件が起こることになる」

「ふーん。言っておくけど、私は自分で死ぬ気満々だから。あなたにお世話になる必要は無い」

 それで納得したのか、相手していても無駄だと思ったのか、里咲は去った。


「初霜と 我が身に巣食う 黒き死と。あら、来たのね」

「今日は初霜だったね。私も、短歌作ったよ!」

「あら、聞かせてくれる?」

「うん。桜待つ 世に凛と咲く 梅の華 鳴く鶯を 覧せぬ我ら」

「立春の一首ね。でも、桜と梅が季重なりではないかしら。あと、『覧す』なんて、あまり使わないわよ」

「そんなのいいの。伝えたい事が伝わればそれで。じゃあ、用事あるから、行くね!」

「あ、凛!」

 私は、振り向きたい気持ちを抑えながら、早足で、もう来ることはない、楽園を後にした。


 今日の凛は、おかしい。短歌を詠んだり、すぐに帰ったり。どことなく焦っていたのが気にかかる。まるで、死ぬ前に思い残すことを無くしに来た、みたいに。

「桜待つ 世に凛と咲く 梅の華 鳴く鶯を 覧せぬ我ら………あっ!」

 気づいてしまった。だから、桜と梅を二つとも使ったのだ。だから、「覧す」なんて言葉を使ったのだ。五七五七七、その一文字目ずつを繋げると、「さようなら」。そして、彼女が向かった場所は━━━


「私は、最期をあそこで迎えたい」


 ━━━学校。私の高校には、星麗たちがいる。自殺しようとする凛を、止めないわけはないだろう。となると、凛の中学校か。

「行か、なくちゃ」

 自分の発言が、彼女の死に場所を決めるなんて、そんなの嫌だ。自分より先に、彼女が死ぬなんて、そんなの嫌だ。

 見回る看護師たちを撒いて、私は中学校に向かった。


「来たようね、橘」

「ごめん、時間がわからないんだけど、今何時?」

「十六時三十八分よ。あと二十二分ね。楽しみだわ。今から死んでもいいのよ?」

「いえ、十七時と言ったからには、その時に死ぬわ」

「わかったわ。あなたがそうするのなら、最後のお願いとして聞いてあげる」

「どうも」


 中学校には行ったことがない。しかし、スマホを使えば、位置などわかる。走る。ずっとベッドの上にいたので、筋力はほぼない。それでも走る。間に合え、間に合え。心臓は、たぶん正常に機能していない。喉から血が込み上げる。仕方なく、それを路上に吐く。パジャマのままで、走る。十数分経っただろうか、白い建物が見えてくる。あれか。少しスピードを上げる。それにつれて、吐血の回数も増える。中学校に着く。迷いなどなく、屋上まで走る。時刻は、十六時五十七分。まだ死んでいないか。飛び降り自殺だろうから、一瞬グラウンドに目をやった時に見えなかったことから、まだ死んでいないと推測できるが、実際はどうかわからない。階段に吐血。もう何度目か。十六時五十九分、屋上への扉を開く。


 あと、一分。扉が開く音がする。傍観者志望かと推測する。そして、そこから出てきたのは━━━

「お姉ちゃん!」

「凛!あなたたちは?」

 ━━━口から血を流している、姉だった。

「私たちは、凛の元友達です。凛の自殺を唆していました。あなたは、凛のお姉さんですね?」

 姉は、以前はこういうことは嫌いなタイプだった。人前で勇気を出して話すことが。

「ええ、そうよ。あなたがさっき言ったことが本当なら、今すぐにここから立ち去りなさい。あなたたちには、人間としての存在価値なんてないわ。死にたくない人を殺そうとしている。これは、立派な殺人よ!」

 しかし、少なくとも、今の姉は違う。

「くっ。逃げるわよ!」

 姉は、あの執拗い里咲たちを、追い払ったのだ。


 里咲たちが屋上を去った後。

「お姉ちゃん!」

 姉は、不意に倒れた。

「お姉ちゃん、大丈夫?!き、救急車呼ばなきゃ!」

 救急車が来たのは、十数分後だった。


 数時間後。

「ん………凛?」

 姉は、気がついた。

「お姉ちゃん!」

「凛!ありがとう、助けてくれて」

 その後、姉はベッドシーツに血を吐いた。

「大丈夫?」

「いえ、あまり大丈夫な状況ではないわ」

「でも、あのね、言いたいことがあるの」

「何?」

 また、シーツに鮮血が散る。

「えっと、お姉ちゃんは、あの時、つまり、私が死にそうになった時、なんで来てくれたの?」

 沈黙。そしてそれは、数秒で破られた。

「勇気を絞り出したのよ。でも、その勇気に、理由なんていらない」

「理由がいらないものは、棄てなきゃいけないんじゃなかったっけ?」

「堂々巡りのようだけど、勇気だけは、棄てちゃダメだと思うわ。だってこうして、妹を救えたんだもの」

「ありがとう、お姉ちゃん」

 その後、姉の心臓は、三度拍動し、その後、二度と動くことはなかった。

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勇気と憎悪とその理由 氷華 青 @Ao_Scarlet

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