3 高度資本主義ゲームにおける「プレーヤー」

 さきほど『半沢直樹』で激しい派閥争いを繰り広げる登場人物たちの価値観が理解しがたいと述べた。言うまでもなくこれは、私自身の権力志向や出世欲の薄さゆえに抱いた感想である(というより、このドラマを見て自分の性向に気づかされた)。とはいえそれだけで済む話でもない。社内での出世や権力掌握に対する登場人物たちの動機を理解しにくくしているのは、彼らがいったいなんのために社内でのポジション争いや権力奪取に奔走しているのか、どうもよく見えてこないからでもあろう。成り上がったとして、その先でなにを望んでいるのかが、よく分からないのである。出世してこういう生き方がしたいだとか、こういう目標を実現させたいだとか、こういうふうに幸せになれるだとか、そういったビジョンがない。少なくとも作中では明記されず、ほぼ省略されているといってよかろう。お金を稼ぎたいのかさえ謎である。彼らは純粋に権力にしか興味がないかのようだ。

「人間」がないというのは、こうした意味である。仕事以外での魂の置き所がない。会社を出ても帰るべきホームがない(物理的な自宅という意味ではなく)。稼いだお金を使う私生活も浮かび上がってこない。だからこのドラマではたぶん、「公的な問題を解決すると同時にプライベートな問題も解決する」といったハリウッド映画的な法則は成り立たないだろうし、倫理や道徳を当てにした「お涙頂戴」の展開もないのだろう(敵の土下座を見てスカっとはしても、感動はしないはず)。私生活とは言うまでもなく会社や経済システムの「外部」であり、倫理や道徳とはその「外部」とそこに住まう「人間」の相関項である。しかるにこのドラマで省略されているのは、こうしたシステムの「外部」である。

 システムの「外部」の消失。あるいはシステムの「外部」からの離脱。これは高度資本主義社会の特徴でもある。要するに、経済は元来、人間のあれやこれやの欲求を満たすためのシステムであったにもかかわらず、資本主義が発達すると、経済システムはそうした外部にある欲求なしで回るようになる、ということである。なぜかといえば、システムは自身の前提となる「欲求」なるものを、みずから作り出すようになるからだ(広告の目的を考えてみればよい)。この段階で、経済の営みは「人間」という「外部」を必要としない一種のゲーム(戯れ)と化す。その内部での達成目標の他に満たすべき「必要」や「目的」がないという意味で、「ゲーム」だ。内田隆三という社会学者が1987年の『消費社会と権力』という著作でこうした分析をおこなっている。そしてこの本で高度な資本主義システム(消費社会)の「ゲーム」の典型として分析されているのが、ほかならぬ金融の世界である。

『半沢直樹』がこうした高度資本主義経済の「ゲーム」を描いている、少なくともこうした現代社会の構造を前提として成立している作品であることは、見やすい道理であろう。正確に言えば描かれているのはどちらかといえば権力争いの「ゲーム」なのだが、それが「ゲーム」の性格を帯びていることには違いない。「ゲーム」だから、勝利を通して満たすべき「目的」は必要ないのである。また、その外部に「人間」がいる必要もない。そこにいるとすればそれは、ただひとつの共有された勝利条件(出世!)を志向する「プレーヤー」だけであろう。さまざまな欲望を抱えた「人間」の姿は、「ゲーム」の中では空白とならざるをえないのである。

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