第22話 急転直下


 魔法毒が人間の血肉を侵す時、独特の臭いを発生させる。

 弓兵騎士のアルフレッドは、その臭いを探知してほくそえんだ。魔弓アルトロンの影響で発達した超嗅覚が、獲物の位置を告げている。


 昨夜に射撃した化け物は、もうすぐ、死ぬ。


 それが分かったからだ。


 騎士団の副隊長を惨殺してのけたその化け物は、かなり遠くまで逃げたらしい。

 臭いをたどるのは楽だったが、居場所まで捕捉するのに少々の時間がかかった。結果、森林の中の移動に慣れた彼が先行する形となり、騎士団の他の連中からは、距離が離れてしまっている。


 目印はつけているので、おいおいかけ着けてくるだろう。むしろ、彼単独で行動している方が今は望ましかった。何故なら、アリシア王女を殺害するという特命を受けているからだ。


 魔王との婚姻のため、アリシアの護衛に派遣された騎士の数は五百騎。その全てが、アリシア王女を殺害し、魔王との婚姻――ひいては魔王との同盟――を、破談にさせようという極秘任務を知っているわけではない。


「あいつか」


 アリシアと、見慣れぬ男を確認した。

 遠眼鏡とおめがね(望遠鏡)でだ。


 昨夜の化け物は見当たらなかったが、毒の臭いはその男からする。こいつが、何らかの手段で化け物に変態したのだろう。そういう魔術があり、そういう魔術の使い手が傭兵の中にいることを、風の噂で聞いたことがある。


 確か名前は、魔王に祝福されしハルだったか。


「ふ」


 待った。

 相手に気づかれぬ距離を保ったまま、しばらく待った。


 遠眼鏡の中で、男が倒れこむように地面に寝そべっている。

 アルフレッドはほくそ笑む。もはや手を下すまでもなく死ぬからだ。


 毒が回り、低体温症に陥ったのだろう。男の顔から血色が失われている。アリシアが健気に毒を吸出し、さらに服を脱ぎ捨てて温めようとしたところまで見て、アルフレッドは苦笑し遠眼鏡を置いた。


 弓を構える。距離はおよそ半里(二km)。人間が豆粒のように見える距離だが、魔弓アルトロンの命中精度ならば何の問題もない。

 アリシアの背中、心臓の裏に的を絞る。気を練り上げ、意識を集中し、魔力を込めて矢を放とうとした。


 その時――。


「な――」


 まばゆいばかりの光が現れた。

 それは朝日よりもまぶしく、白く、圧倒的な存在感を放っていた。


「…………」


 魔王の武器を扱う者ならば、あるいは魔術をかじった者ならば、目の前で起こっていることの凄まじさが理解できたであろう。


 魔力。


 それも、魔王と呼ばれる超絶者が帯びるほどの、膨大な魔力。

 純粋な魔力の流れが裸眼で目視できるほどに渦巻く光景を、アルフレッドは産まれて初めて目にしていた。


 その魔力の中心に、アリシアがいる。

 昨夜、襲撃してきた化け物のものかと思ったが、その男は死にかけている。

 だからあの魔力はアリシアのものだろう。尋常ならざる力だった。たとえ彼が百人いたとて、到底ひねりだせぬ力だった。


「構うかよ……!」


 魔弓アルトロンの毒矢は、かすり傷でも確実に殺す。ひるみはしたが、絶好の機会を逃すつもりはなかった。


『ヤメロ……』

「?」


 どこかからか、声が聞こえてきた気がした。近い場所、そう、自分の抱える弓くらいの近い距離から、ささやくほどに小さな声が。


 弓を引き、離す。弦音が鳴る。

 矢が、吸い込まれるようにアリシアの背へ向かっていく。


『やめろ、おろかもの』


 また、声が聞こえてきた。


「誰だ?」


 誰何すいかするアルフレッドは、唖然とした。

 矢が、アリシアまで三間ほどの距離まで近づいた時、複雑な軌道を描いてぐにゃりと曲がったから。


「なん……」


 その矢は、アリシアの背ではなく、弓を射かけたアルフレッドへと標的を変えていた。

 生き物のように空中をはしる魔王の武器の一撃を、彼は避ける間もなかった。


「だと……」


 信じられぬ――そんな顔をしたアルフレッドの口から、大量の血が流れだした。

 鋼鉄すら貫通するアルトロンの矢が、彼の心臓と左の肺をぶちぬいている。

 絶命したアルフレッドの遺体が、大地に崩れ落ちた。


『当然の報いだ。こともあろうに我を使って魔王様を傷つけようとした愚か者めが……』


 魔弓アルトロンの声にならぬ声が、自分の使い手であったアルフレッドの遺体に向けてかけられた。



 ***



 とても柔らかいものが、二つ、背中に当たっている。

 温かくて、心地いい。

 左の肩甲骨あたりから、心臓の鼓動と、首筋をくすぐる呼吸の音がする。

 身体が凍えていた。手足のあたりの感覚がひどく鈍い。その冷たさを、後ろから抱きすくめられた柔らかな体温が溶かしてゆく。


 誰だろうか。


「カレ、ナ……?」


 かつて……、ほんの数年前まで愛し合った者の名を口にする。

 びく、と、自分を抱きすくめた誰かが、身体をすくませた。


「ああ。ちがうな……カレナじゃない……」


 背中に当たるのが女の乳房だとして。ちんちくりんのカレナのはこれほどは大きくはない。それにもう、カレナとの関係は切れている。

 匂いも違う。香水の匂いに混じった女の汗の匂いがする。どこかで会った金持ちの貴族の女に似た匂い。ただ、嫌いな匂いではない。

 後ろにいるのが女であるのは間違いないだろう。抱きしめられていることも。

 と、なると。

 問題が一つ、いや二つ。


 一つ目。俺を後ろから抱きしめている奴は、何で裸なのか。

 二つ目。裸になったおっぱいのでかい女から抱きしめられている俺の、とるべき行動は何か。


 そこで、思いいたる。

 俺が意識を失った状況に。となるとプロポーションからして、俺を抱きしめているのはお姫様ということだろう。

 まずい。

 三つ目の問題が出てきた。


 三つ目。お姫様の貞操が失われた場合、俺のち〇こが吹っ飛びます。


 お姫様を守って魔王の下へ送り届けるというクレアとの契約条項の中には、お姫様の貞操順守義務も入っている。まあそうだろうな。俺も年ごろの男だし。お姫様は綺麗だし。誰だってそうする。俺だってクレアの立場ならそうする。


「もういいぜ、姫サン」


 目を開ける。もう少しこの状態で寝ていたかったが、このままはまずい。

 股間の紳士がサムズアップする前に離れねば、お互いに一生モノの傷を負ってしまいかねない。


「すげーな。治癒魔法が使えたのか」


 立ち上がり、おそらく胸をはだけているであろう姫サンから視線を外しつつ、距離を取る。止血のために巻いた縄をナイフで切ってはずす。そのあたりに自生してたらしい薬草がすりつぶして患部にあてられていた。


「すげえな、見くびってたよ。すまん」


 お姫様が一人でこれをやったのだろう。そこらの医者なみの適切な処置だ。

 毒でやられたはずの脚の腫れが引いていた。傷痕が塞がっているどころか、傷であった痕跡すらない。身体も軽い。


『違うぞ、ハル。治癒魔法なんぞじゃない。もっと別の何かじゃあ……』


 草の上に転がっていた火縄銃が喋った。


「別の?」


 言われてみれば、不可解だ。

 俺の身体をむしばんでいた毒は、まず間違いなく魔王の武器でつけられたものだ。そこらにいる錬金術師が使える治癒魔法でどうにかなる代物とは思えない。

 抗毒こうどく血清けっせいがあれば話は別だが、そんな都合がいいものがあるとも考えにくいし――。


「わたくしにもよくわからないのです。ハルさんが意識を失って、身体がとても冷えていたので温めないと、と思ってああしたのですけれども」


 背中ごしに、衣擦きぬずれの音がする。服を着なおしているんだろう。

 男の哀しい生理現象というか、振り向いてこっそり観察したい欲求が沸いて来てるが――慎重に行動せねば俺のち〇こがきれーに吹っ飛んでしまう。おのれ。クレアめ。ひどい項目を契約条項に潜り込ませやがって。相変わらず先見の明がありやがる。


「必死になってああしていると、突然このガラス玉が光り始めまして……そうしたら、ハルさんの顔色に血の気が戻っていきました」

「ガラス玉?」

「服を着ました。もう大丈夫です」

「おう」


 着替えさせるのは今日で二度目か。すまんな姫サン。まだ嫁入り前なのに、こんな冴えねえ男に肌をさらす羽目になっちまって。


「これなんですけれども」


 お姫様の手に持ったガラス玉を見て、俺は首を傾げた。何の魔力も感じない。


「これは、祭りの時に売ったアレか」

「はい。ハルさんから出世払いのお約束で買ったアレでございます」

「触ってみていいか?」

「どうぞ。ハルさんなら構いません」


 十年も前だから五歳の時に買ったおもちゃを今も後生大事に抱えているとは。よっぽど気に入ったんだな、姫サン。

 それはいいが、手に持って光に透かして見てもつついてみても、何の変哲もないガラス玉にしか見えない。これが魔王の武器なら何か伝わってくるものがあるはずなんだが。


「うーん、わからん」

「分かりませんか」


 お姫様の手にガラス玉を戻す。お姫様は俺と同じように光に透かしてそれを見た後、やっぱりわからないらしく首を傾げた。


「ならば、私から説明しようか」


 くぐもった声。密閉した金属の隙間から響くような。


「!」

「誰だっ!?」


 追手か。そう思って声の方を見て。


「…………」


 俺は反射的に膝をついた。森の草や泥に服が汚れるのにも構わずに。

 ひざまずいた先にいるのは、全身鎧を着こんだ、得体の知れぬ人の形をした何かだ。


「ハルさん?」

「姫サン、俺と同じようにしてくれ」

「お知り合いですか?」

「魔王サンだ。頼む」

「え」


 小さく声をたて、姫様も俺と同じく膝を折った。


「大きくなったものだ。フェルビナク国の王女アリシアに、魔砲グリグオリグの使い手ハル・ベルナデッド……で、あっていたかな?」


 魔王ワルプルギスナハト。


 ガキの頃に謁見した姿そのままの化け物が、俺たちの前にいた。

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