第18話 ハルの奇襲

 

「あぐ、が……」


 うめきが、アリシアの口からもれた。

 呼吸ができない。

 鍛錬を積んだ騎士の、恐ろしい腕の力で首を絞められているためだ。


(なぜ?)


 思考が恐怖と切り離されて、虚空に浮かんでいた。騎士団の副長に、自分を護衛するはずの男に殺されようとしている状況をどこか冷静に見下ろしながら、アリシアはぼんやりと思う。


(なぜ、わたくしは殺されるのだろう?)


 今しがたの粗相そそう。夜食に出されたスープを、こぼしてしまったからか?

 スープに致死性の毒草が入っていることを聞きとがめたせいか?

 いや、分かっていたはずだ。

 クレアから聞かされた通り、公爵が自分を殺そうとしているからだ。

 公爵の命令を受けて、副長はついに殺害を実行に移したのだ。


(いやだ――)


 意識が遠のいていく。

 死にたくない。

 今はまだ、死にたくはない。やり残したことがあるから。

 まだ自分は、ハルに約束をしたお金を返していない。

 買ったのだ。生まれて初めて参加したお祭りで、自分だけの宝石を。

 払うと約束したのだ。大切な、大切な宝物を手に入れるための代金を。必ず、何年かけてでも支払うと約束したのだ。自分の力で稼いだお金で。


「あ、が……」


 小さな、蚊の羽音のように小さなうめき声が、口から洩れる。その声に、白い泡が混じった。

 死ぬ。


 アリシアが白目を剥き、副長を止めようともがいていた手が、力を失ってだらりと下がった。


「おい。……おい」


 声がした。野太い男の声。


 どさりと、音がした。


 その音を、失神したアリシアは聞けなかったが、アリシアの首を絞めていたルータルは確かに聞いた。腕が落ちる音だった。今の今まで、王女の首を締めあげていた自分の腕が胴から離れ、王女の身体と共に地面に落ちる音だった。


 副長の腕が、ねじ切られていた。



 ***



「…………!」


 お姫様を殺そうとしていた男の、腕を潰した。

 同時に、首根っこを掴んだ。


「騒げば殺す」


 野太く、低く、小さい声で俺は言う。

 化け物になった自分の声は、自分ですら慣れない音と響きを持っていた。普段とはあごの形状が変わっているせいだ。

 言った瞬間に、ぐしゃりといういやーな音がしていた。


『おー、おー、やっちまったのう。馬鹿力め』

「ち」


 手のひらを開け、頭が胴体から離れたむくろを無造作に捨てると、俺は小さく舌打ちした。

 首ごと、喉笛を握りつぶしちまった。

 お姫様を殺そうとした男の首が、ぼとりと落ちて、頭部を失った首からびゅうびゅうと血が出ている。


『まじゅーい。不味い返り血じゃあ……』


 男の血を浴びたリィが、不満げにそう漏らした。こいつは魔物を好んで食うが、人は食わない。


「わりいな。久しぶりで加減が分からんかった」

『ならばそこの死体で試せばよかろ』

「なるほど。賢いな」


 戦場にあって、俺たちはただの外道だ。


『ふふん』


 意志を持つ火縄銃を会話する、ゴーレムのように巨大な二本足の男。

 果たして周囲の人間に、その姿はどう写っているのだろうか。


 周囲を見回す。幸運なことにお姫様以外は誰もいない。それも当然だ。

 死んだこの男が、お姫様を殺すために人のいない場所へ連れて行ったのを確認してから俺は出ていったのだから。

 遠くに夜営のかがり火がある。彼方に騎士たちがたむろしているらしい。夜の闇は深かった。星も月もあるが、足元にある地面の形すらろくに見えない。


「このくらいか」


 俺は殺した男の脚をつかむ。


 さっきの力を十とすると、五くらいの力だった。

 化け物となった俺の指が、死体の脚部の筋肉にうずまり、皮膚が破れて血がにじみ出た。

 強すぎる。三くらいならいけるか。

 俺は力を弱め、脚の別の個所をつかむ。

 今度は血がにじまなかった。だがうっ血して変色している。

 まだ強い。もっと弱く握る。一、いや、一の半分。

 数分、そうやって試したのちに。

 損壊した死体と、おおよその力加減を学習した俺が出来た。


「リィ、どうだ?」


 仕上げとばかりに、背負ったリィの銃床を加減した力で掴んでみる。


『おお、この力加減ならいけるじゃろ』

「よし」


 次は、お姫様の救出だ。


 月と星はあるが、闇は深く、視界は心もとない。

 ほんのりと、香水の匂いがただよっていた。数日前に王宮で嗅いだ、アリシアのつけた香水の匂い。

 その匂いを頼りに、しゃがんで、手探りをする。柔らかい女の肉の感触があった。


「ぅ……ん……」


 かすかに声がした。浅いが呼吸の音も聞こえる。

 闇の中、慎重に手探りをする。お姫様はうつぶせに倒れているらしい。占い師が花の花弁をつまむように、力加減に細心の注意を払いつつ、仰向けに寝かせる。

 細い首の下に、周囲に転がっていた握りこぶしほどの大きさの石を差し込んだ。即席の気道確保。


『くさっ!』


 リィが叫ぶ。そりゃそうだろう。

 腰巻きにくくりつけた袋から出した薬の包みが、猛烈な臭気を放っている。

 尿を煮詰めて作った気つけ薬だ。お姫様の鼻に近づける。


「っ、んっ、うあ……!」


 意識を取り戻したらしい。きつけ薬をしまう。


「おい、姫サン。俺だ。こんなナリをしてるが、ハルだ。助けに来た」


 うっすらと、アリシアが瞳を開けた。月の光を彼女の瞳が反射して、蒼く輝いている。

 長いまつ毛が、揺れている。目尻に涙が浮かんでいた。

 生きている。

 呼吸にともなって、ドレスに包まれた胸がかすかに上下している。

 敵陣という危険の中にいるにもかかわらず、ハルはアリシアの顔を見たまま、数秒の間、ほうけた。

 綺麗だった。

 月に照らされた彼女は、とても綺麗だった。


「……ハ、ル……さん? っ痛ぅ……」

「あ、ああ、ハルだ。分かるか?」

「ゆ、め……う、げほっ」


 呆けた顔で、お姫様がつぶやいた。


「違う。本物で現実だ。とりあえずそのままでいい。呼吸を整えろ」


 お姫様がうなずいた。


『のみ込みがはやい子じゃのー』


 まったくだ。非常に助かる。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

「いいぞ。いい子だ。言いつけ通りにしてくれて助かる。無理に喋ろうとしなくていい。呼吸を整えてくれ。二、三分休憩したら、アンタをかついで逃げる。俺がかついだら、あとはできるだけ強くしがみついて大人しくしてくれ。振り落としちまうからな」

「は……ぃ……ぜぇ、ぜぇ。あ、ありがとう、ございます」

「無理にしゃべるな」

「う、うれしくて、はぁ、はぁ……」

『おお、おお。なんて素直な子じゃのう……』

「夢だと思ってるのかもな」


 普通の人間なら、化け物の姿になった俺を見れば狂乱して逃げようとする。


『さらうところまでは上手くいけそうじゃの』

「ありがてえこった」


 俺も、リィも、油断していた。

 彼方から放たれた矢が、俺の脚に突き刺さった。

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