第17話 暗殺されるアリシア / 救出に向かうハル
日が沈もうとしている。
「うぷ……」
船酔いに青ざめた顔で、アリシアは頬をさすった。ようやく一日が終わるかと思うと、はしたないと思いつつも安堵の息が出てしまう。夜は川に船を置き、陸地に上がるからだ。
旅は最悪だった。
揺れる事もそうだが、用を足す際の不便さと不快さといったら。
王宮ならば水洗式の手洗いがあるが、こちらは据え置きの入れ物にしたのちに侍女が回収して船首から垂れ流しである。
王宮の暮らしが恋し――
(恋しい……?)
空を見上げて、アリシアは息を吐いた。まんまるな月が、不気味に輝いている。
ふつふつと怒りがわいてきた。自分自身に対して。
(わたくしは、何様だ?)
退屈な生活だった。
王宮の一室で代わり映えのしない景色を見つめ、言われたままに手習いを覚えるだけの生活。侍女にかしづかれ、屈強な近衛兵に守られ、毎日決まった時間にご飯を食べて、外の生活に憧れ、王宮の不自由さを嘆いた。
うんざりする毎日だった。意志なき人形となることを強いられた、無味乾燥な半生。日々が繰り返す中で感覚が鈍麻し、希望も絶望も感じられなくなる閉じた世界。
そこに未来はなく、現在からつながる惰性だけがあった。魔王にふさわしい花嫁というステータスを身に着けるためだけに、育てられた。
ずっと、外に出たかった。
それがどうだ。
たった数日、旅をしただけで、王宮が恋しい……?
腹が立つ。自分に。あの時もそうだ。十年前のお祭りの時も。王宮を抜けだしての大冒険。自分を守る人たちから逃げたくて外に出たのだ。
あの時は、見知らぬ男にさらわれかけたくらいで大泣きして、自分自身を見失った。
いい薬だ。
船酔いの吐き気も、不愉快なトイレ事情も、暗殺の恐怖も。
骨に染みてくる。自分の甘ったれさが。
旅は、自分の冒険はまだ途中だ。へこたれて、自己
「姫様。食事の準備ができました」
「わざわざ申し訳ありません」
青ざめた顔に無理やりに微笑を浮かべ、立ち上がった。何をするにも体力がいる。そのためにはきちんと食べなければならない。フラフラの身体では、ハルが助けてくれた時に足手まといになってしまう。
松明を持った騎士――護衛隊副長の後ろについていく。
副長は、夜営の陣地から離れるように進んでいく。
「離れた場所に見晴らしのいい岩場がありましたので、気分転換にはちょうどよいかと思いまして」
「お気遣いありがとうございます」
嫌な予感がした。
護衛の騎士たちからかなり離れた場所で、副長が立ち止まる。
小高い岩があって、その上に立つと川が見下ろすことができた。足元に視線を落とすと、夜営のかがり火が見える。
「どうぞ」
片手に持った籠から、副長は食事をとりだした。作り置きの黒パンに、いましがた煮炊きした山菜と肉のスープ。
差し出した温かいスープの入った器を、アリシアは手にとった。
手渡されたスプーンを使い、口へよそおうとする。獣の肉と、香草の根っこらしきものが浮かんでいる。味付けは塩と胡椒か。なんとも言えない臭いが鼻についた。小さく口を開く。息を吹きかけ、冷まして、食べようとする。その時。
「っつ!」
お腹のあたりを、焼いた木の先を押し付けられるような痛みが走った。
「あつっ!」
必死に、激痛の発信源をまさぐった。服の内側だ。旅用の動きやすいドレスの内側、隠しポケットの部分に穴が開いていた。焼け焦げている。
小さな、光る玉が転がり落ちた。
安物のガラス玉だった。出世払いの約束でハルから買い取り、宝物としてずっと大事に持っていた代物だ。
「あつつ……」
飛び跳ね、旅行用の簡素なドレスをぱしぱしと叩いて、ようやく落ち着く。
アリシアは、ガラス玉を見た。
ガラス玉はぬかるんだ地面に落ちると、すぐに輝きを失った。近寄り、爪先でそっとつついてみる。今しがたの焼けつくような熱がなくなっている。
拾い上げた。
やはり、普通のガラス玉だ。
どういうことだろうか……?
「アリシア様、いったい何が?」
「わかりません。この玉が突然、焼いた鉄のように熱くなって……ああ、すみません。せっかくのスープが」
丁寧に頭を下げて、アリシアは地面に落とした食器を拾った。
と。
スープの具材、広葉樹の木のような特徴的な葉脈をした草を凝視する。
松明の明りの中ですら、はっきりとわかった。この形。この色。ハルから貰った本に載っていたものと酷似している。記憶が正しければ、これは――
「これは、毒草なのでは……?」
「……」
副長の顔つきが一変した。
***
月が、煌々と天宙に浮かんでいた。
赤みを帯びた輝きの中、月は表面にあるクレーターのシミの一つ一つがわかるほどに大きく、明るく、高くにあった。
今宵は満月。狂乱の夜。
大気が、魔王の祝福にあふれる時。
深く、より深く、俺は息を吐いた。次に吸う。また深く吸う。
「お」
口から、うめきに似た声が出て。
「おおおおおおおおお……!」
狼の遠吠えのように響き渡った。
〈
満月の夜のみ使うことができる、俺の切り札。
世界には、五つの力があると、師匠から教わった。
すなわち、電磁力、強い核力、弱い核力、重力、魔力。
魔力は、他の四つの力の根源を支配する。原子と電子核、果ては陽子や中性子を構成するクォーツが持つポテンシャルバンドをつかさどる。魔力は、エルミート演算子に対するエネルギー準位の固有値を改変する(偉そうに言っててなんだが、師匠の話はわけがわからん。難しい単語が多すぎる)
ともあれ。
魔力を扱う方法、技術体系を、錬金術師たちは魔法と呼んだ。
俺の魔法。それは
筋肉はタンパク質から成る。タンパク質はアミノ酸から成る。アミノ酸は炭素、酸素、水素、そして窒素から成る。
窒素固定により、俺は筋肉の鎧を手に入れる。
俺の腕が、足が、胴が、首回りが、雄たけびと共に倍ほども膨れ上がってゆく。背丈が伸び、身体が膨れ、顔が魔獣のように狂相を呈した。
火器と爆発物のスペシャリスト。
味方を巻き込む、最下級の傭兵。
魔王の手で作られた武器を自在に奮う一騎当千の能力者。
いくつかある評価のうち、最も有名な二つ名は次のものだ。
“魔王に祝福されしハル”
「い、くぞ」
くぐもった声。
怪物が地を蹴る。蹴られた地が、ぼ、と音を立てて崩れた。
俺の身体は宙に弧を描き、一間(三十メートル)近く先の川べりへ着地する。
着地と同時に疾駆し、獣のごとき速さで騎士団が夜営をしている場所へと向かっていった。
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