第13話 再会とお礼
不覚、というよりも。
不思議に思った。
何の戦闘訓練も受けていないお姫様に、背後をとられた。
これから嫁入りを控えている大国の姫君が、護衛も伴わず自分の所へ一人で自分に会いに来た。
どちらも不可解だ。
それに、先ほど感じた感覚。
記憶をたどり、似たような感覚を思い出してみれば。それはガキだった頃に故郷で魔王を目の前にした時と同じものだ。怖いとか恐ろしいとかいう次元の話ではない。肌の感覚が鈍り、周囲の空気が熱いのか寒いのか分からなくなる。まるで自分が生きたまま死人になったような錯覚。
昨夜もそうだった。ただ、今ほどではなかったが。
目を合わせた瞬間に、身体にかかる重力を見失った。崖から突き飛ばされたような恐怖があった。
この女、本当に人間か……?
昨夜からの疑念が頭をよぎる。
「はい。アリシアです。驚かせてしまってすみません」
ああ、確かに驚いたよ。
王女が平民相手に丁寧な言葉遣いをすることも驚きだし、簡単に背後を取られたことにも驚いた。
人ならざる、魔獣と遭遇したような気分だった。
魔剣を持ったクレアと相対した時すら凌駕する、死のイメージがそこにあった。
『なんじゃろ。なんじゃろなー、このお嬢ちゃん、妙な感じがするのー』
「魔王サンが来たかと思ったぜ」
「あは。ハルさんって面白――」
アリシアが微笑み、かけて、言葉を切った。
理由は分かる。俺の様子がおかしいからだ。小刻みに、俺の身体が震えていた。自覚できるほどの震えだ。ひざが笑っている。
「大丈夫ですか? 顔色が真っ青です」
「だろうな」
言われ、俺は顔を手でぬぐった。普通の、ただ飛びぬけて綺麗なだけのお姫様の顔を見ながら何度か呼吸をする。身体の小刻みな震えは、しばらく止まりそうにない。
「気にするな。今日は調子が悪いらしい」
「そう、ですか」
「俺に何か用か?」
「昨夜はろくな挨拶もできず申し訳ありません」
アリシアが頭を下げた。隙だらけだ。普通の人間に見える。
違和感も消えている。皮膚感覚もいつの間にか普通に戻っていた。肌寒い朝の空気が、ちゃんと感じられる。心臓のあたりに恐怖の残滓が残っているが、少しすれば落ち着く程度だ。
「リィ。どう思う?」
『普通の娘に見えるのー。おかしーのー。気のせいかのー』
そうか。お前もそう思うか。俺の勘違いか……?
「リィ……?」
お姫様が不思議そうな顔をした。
リィの声は、魔王の武器を操る者にしか聞こえない。
「いや。独り言だ。それよりも姫サン、まさかそんな事をわざわざ言いに来たのか?」
「いえ。その。それだけではなく。できれば、教えていただきたいことがあります」
深刻そうな顔だ。思いつめた顔だ。
こんな顔をして俺なんぞに何を――と考えたところで、そうか、と得心する。
クレアから伝えられた、お姫様の暗殺計画について尋ねに来たのだろう。
「ああ。俺に答えられることならな」
「昔、十年くらい前、お祭りでさらわれかけていた小さな
わけが分からん質問だった。
十年前? 祭り?
「知らん。記憶にない。いや、待て……十年前か……、いやいや、違う。ありゃ女の子だった。どう見ても女だ。男じゃない」
十年前だと、俺が十二の頃だ。師匠について銃と火薬の使い方を手ほどきされた頃の話だ。祭りといえば、王都へ聖誕祭に立ち寄ったことがある。
記憶の糸を紐解いてみれば、人助けした覚えがない訳ではない。
だがそれは、男じゃない。
「どんな子でしたか?」
「名前は知らん。たぶんいいところの貴族様だな。血色のよさそうな顔をして、見るからに高そうな服を着ていた。あと、信じられんくらい綺麗な――そうだ、姫サンに似てる」
「その女の子に、何かを売りませんでしたか?」
「なるほど、カマかけてたのか。売った。銅貨三枚で買った土産用のビー玉だ」
「ああ、やっぱり……。私がその時の女の子です」
なるほど。
言われてみれば、面影がある。といっても、五歳の子供が十年の歳月を経て成長した姿だ。言われてみなければ気づくはずもない。
綺麗になっていた。
『はー。あの時のちんちくりんか。こりゃまた、めんこくなったもんじゃのう……』
「だな」
審美眼にうるさいリィの感嘆に、俺も同意する。
あの日から――。
俺もお姫様も、歳をとった。
未熟なかけだしの男は、歴戦の傭兵となった。
無垢な少女は結婚できる歳になり、身体つきが女の丸みを帯びた。
「ふうん」
五歳かそこらのがきんちょに、銅貨三枚で買ったビー玉を、銀貨三枚の値段で売りつけた。出世払いの約束で。
なかなか、印象的な思い出ではある。
期待はしていなかったから、今の今まで忘れていたが。
「それで、約束した金を払いに来たのか?」
「いえ。まだお金は用意できていません。でも必ず支払います。それを言いたくて」
「りちぎな奴だ……」
「む。私は嘘はつきません!」
「声がでけえよ」
誰かに聞かれたらどうするんだ。
「す、すみません……」
恐縮したていで、お姫様は頭を下げた。
素直な娘だ。十年前と変わらない。妹に少し似ている。
「要件はそれだけか。だったらすぐに王宮に戻ってくれ。俺が依頼された任務期間は姫サンの旅が始まってからだ。今、俺と姫サンが会ってるところを誰かに見られたら、任務に支障が出る」
「はい。わかりました」
アリシアはうなずいてから、自分の顔を軽くはたいた。
『すごいのぅ。この娘、どんな動きをしても美人さんなんじゃぁ。所作の一つ一つがわらわくらい華憐で優雅なんじゃあ。育ちの良さがわかるのぅ』
「そこ張り合うのかおまえ」
「あ、あの……」
俺の瞳をまっすぐに見つめるお姫様。確かに、さっきと違う意味でドキリとする。
「まだ何かあるのか?」
「あらためてお礼を。あの時に助けて下さって、ありがとうございました」
深々と、アリシアは頭を下げた。プラチナブロンドの長い髪が垂れ下がって、先端が床につきそうになっている。
「…………」
『なんじゃ、ハル。美少女さんに感謝されて照れておるのか。固まりおってからに』
そうだよ。悪いかよ。笑うなよ。後で覚えてやがれ火縄銃の分際で。
「どういたしまして……、で、いいのかな。こういう時は。頭を上げてくれ」
面はゆい。
顔の筋肉が引きつれて、どうにも居心地が悪い。
分からんのだ。
どういう態度をとればいいのか。
貴族だとか王族だとか、そういう高貴な身分の人間を助けたことは職業の性質上何度かあるが。こうしてきちんと礼を言われたことは竜の巣にさらわれたお姫様を救った時の一度しかなかった。
いや。二度か。十年前にも言われた。目の前にいる、このお姫様に。
困った。
調子が狂う。明らかに身分の高い人間から、敬意を以て扱われることに俺は慣れていない。
敬語すらろくに使えない、目上相手でもタメ口で喋ろうとする、自分の野蛮さがいやおうなしに自覚される。故郷から飛び出し、傭兵になってからこれまで、社交辞令や礼儀作法など、自分には不必要なものだと思っていた。
「それでは、また」
「あ、待ってくれ」
ちょうどいいチャンスだった。
「ちょっと待ってろ。すぐ戻る」
言い置いて、クレアにあてがわれた宿の中へ戻る。俺は荷物袋をあさると、使い古してあちこちが傷ついた本を取り出した。
急いでドアを開けて外へ出て、アリシアにその本を差し出す。
「旅の心得が書かれてる本だ。熟読しておいてくれ」
「あ、ありがとうございます!」
「声がでけえよ」
「す、すみません。あの、この本のお代は必ず――」
「いらん。いいか。これからの旅は姫サンがどれだけ頑張れるかにかかってる。ちょっとした知識の不足で姫サンも死ぬし俺も死ぬ。死にたくなかったらそれを隅から隅まで読んでくれ。これは脅しじゃないぞ。姫サンも努力してくれんと俺たちは死ぬ。だから頼む」
「わ、わかりましたっ。頑張ります」
ぐっと拳を握り、お姫様は小声で言った。ようやく学習したらしい。
「嬉しそうだな」
「あの、すみません。誰かにものを頼まれるのは初めてのことだったので」
「これからの旅は、そういう機会が増えるぜ」
「頑張ります……!」
どうやらお姫様は、やる気を出してくれたらしい。
いいことだ。すぐに現実の壁にぶっ潰されることになるんだろうが、冷めてるよりかはずっとましだ。
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