第11話 アリシアの借り(後編)

 

 少年は、その両手に火縄銃を抱えていた。その銃口からかすかに煙が立っている。卵が腐ったような臭いが鼻についた。変な臭いだ。それは黒色火薬が燃えた際の臭いであったが、当時のアリシアにそんなことを知るよしもない。


 けれど、この少年が自分を助けてくれたのはなんとなくわかった。あの大きな銃で、自分を抱えていた男の肩を打ち抜いたのだろう……と、推測できたのはしばらく経ってからだったが。


「おい、立てるか?」


 少年が、ぶっきらぼうだが気づかうような声と共に、手を差し出した。アリシアは、倒れこんだまま顔だけを上げて少年を見る。

 黒い髪と、黒い瞳をした男の子だった。

 ようやく、アリシアの頭の混乱が収まってきた。

 見知らぬ男にさらわれかけて、助けられた。助かった。

 その状況を、実感をともなって理解してゆく。

 痛い。

 殴られた顔が痛い。


「う……ふぇ……」


 痛い。怖い。痛い。顔だけではない。倒れた際に手を擦りむいている。指先に血の赤がぷっくりと染み出て、ちくちくとする痛みがある。

 服が汚れていた。泥をかぶり、あちこちが擦り切れていた。

 怒られる。服を汚したこと、怪我をしたこと、近衛兵の目を盗んで街へ出た事、見知らぬ男にさらわれかけた事。全部、怒られる。


『だから言ったでしょう! どうして姫様は言う事を聞かないのですか!』


 と、侍女さんから怒られてしまう……。


(だって、私は……)


「うえええええええええん!」


 声を上げて、アリシアは泣いた。鼻水が出る。涙が止まらない。悔しい。悔しい。悔しい。怒られることも、それにまったく反論できないことも、全部が悔しい。


(私は、お祭りを楽しみたかっただけなのに……)


「うええええええええええ」


 アリシアは泣きじゃくった。


「はいはい、よしよし。怖かった怖かった。泣きたいなら泣け。どこの誰かは知らんが、お前サンは何も悪くない。大丈夫、大丈夫。親が迎えにくるまで俺がついてやる」

「う……うぐ、ひっく……」


 手に持っていた、火縄銃を背中にかつぎ。

 アリシアの小さな背中を、少年の手が安心させるようにぽん、ぽん、と叩いた。

 これが大人の男だったら、彼女は先ほどさらわれかけた恐怖をフラッシュバックさせていただろう。けれど相手は、彼女よりちょっと年上なだけの子供だった。だから怖くない。安心できる。


「ぅぐ……」


 ほどなくして……。


 アリシアのえづきが収まった。

 通りがかった誰かが祭りの警備員か誰かに通報したのだろう。

 彼女をさらおうとした男は、縄を撃たれて連行されていた。他にも警備員が出張っており、遠巻きにアリシアと、彼女をなだめる少年を見守っていた。


「よしよし、落ち着いたな。偉いぞ」

「ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「リィ。おめえはちょっくら黙ってろ」

「り、リィ……?」

「何でもない。こっちのおしゃべりの話だ。気にすんな。いいかい、お嬢さん。身分の高い低いにかんけーなく、謝る必要がない時に謝るのはよくねえ。こういう時に言う台詞はありがとうだ」

「あり、がとう?」

「おう。人に何かしてもらったらありがとうと言う。師匠の受け売りだけどな、人間としての基本らしい」

「…………。ありがとう、たすけてくれて」

「どういたしまして。怪我は大したことねえな。もうすぐ銃声を聞きつけてお前サンの親がくるはずだ。ま、気長に待ってろ」

「…………」

「どうした? どこか痛むか?」

「何も、買えなかった……」

「ああ、小遣いでも落としたのか」

「あ、えと、はい……」


 本当は、お金を持っていないのだけれども。

 上手く説明できずに、アリシアはうなずいた。悔しいのも怒られるのも、先ほど泣きじゃくったおかげで受け入れられたが、けれども残念だという気持ちはぬぐいがたい。ずっとこの日を楽しみにしてきたのだ。


「何が欲しかったんだ?」

「キラキラしたもの……。いろいろと見て、選ぶつもりだったの」

「キラキラ、ねえ。こういうのか?」


 ごそごそと、少年はポケットを探り。虹色の光沢を放つビー玉を取り出した。不純物まみれの輝き。気泡の混じった粗悪なつくり。王宮で目の肥えた少女には、それが一目で安っぽいものだと分かった。


「わぁ……」


 感嘆が、口から漏れた。そうだ。こういうのだ。社交パーティで貴族たちが自慢するようなありきたりの宝石ではなく、庶民が身に着けるような偽物が欲しかった。自分の周りの人は誰も絶対につけないような、こういう安物が欲しかったのだ。


「欲しいならやるぞ。田舎の妹への土産に買ったが、余分にもう二つ買ってあるからな」

「本当!?」


 存外の申し出に、アリシアは目を輝かせ。

 しかし、いきなり自分の頬をつねった。本気でつねった。ぐぎぎぎぎぎぎぎ。


「何してるんだ?」

「たえてるの……!」

「何で?」

「わたしは、わたしのお金で買いたいの。同情で施しされるのは嫌なの。だから、この物欲をたえてる」

「へー……」

「たえてるの! 笑っちゃだめなの!」

「いや。その若さですげえなって感心してるんだが」

「……本当に?」


アリシアは少年を見た。確かに、笑ってない。

黒々として、綺麗な瞳だった。


「施しは嫌いか」

「きらいです」

「お前サン、ガキのくせにプライドが高いんだな」

「ごめんなさい。せっかくのもうしでなのに」

「二度目だ。謝る必要がないのに謝るな。よし、わかった、こうしよう。出世払いだ。俺はこのビー玉を銅貨三枚で買った。それを今、お前サンに売ってやる。代金は利息つきで銀貨三枚。ただし金は後でもらう。そうだな、十年以内に支払ってくれりゃいい。頑張って小遣いを貯めろ。どうだ?」

「……」

「暴利すぎたか? もっと安くしてやってもいいけどな」

「買います。買わせてください。おねがいします」


 土下座しそうな勢いで、王女アリシアは平民の少年に向かって深々と頭を下げた。願ってもない申し出だった。


「よし。決まり。これは今からお前サンのモノだ。約束だぞ。銀貨三枚」

「はい。必ずっ。あ、あの、貴方のお名前は――」


 尋ねようとした、その時だ。


「姫様!」


 屈強な近衛兵の、野太い声がした。駆けつけてきて、アリシアは力任せに少年のそばから引き離される。


「勝手に部屋から飛び出して、あまつさえこんな危険な場所に来るとは何事ですか!」

「ごめ……」


 怒鳴り声。

 反射的に謝罪の台詞を言いかけて、アリシアはぐっとこらえた。謝るべき時でない時に謝ってはいけない。今、教えてもらったことだ。自分は何も、悪い事はしていない。王宮の、訳も分からずに詰め込まれる勉強と躾づけの生活の中で、ずっとこの日を楽しみにしていたのだ。私は何も悪くない。


「…………」


 どうせ何を言っても怒られるだけだろう。そう思い、アリシアは押し黙ってうつむいた。その手には、少年から受け取ったビー玉が握られている。彼女が産まれて始めて買い取った、彼女の所有物。誰かからのお仕着せではない、まごうことなき彼女の物だ。


「王宮に帰ります。もう二度とこういうことはしないでください」

「はい」


 にやつく顔を、すりむいて、乾きかけた血にまみれた手で隠して。アリシアはそう答えた。銀貨三枚。十年以内に必ず稼いで支払おう。必ず。ああ、そうだ。


「あの人が私を助けてくれたの!」


 言って、少年の方を指さそうとすると、彼は別の近衛兵によって連行されようとしていた。


「待って! 彼は私を……!」

「ご心配なく。彼には姫様を救ったことへの褒美を与えます。ですが姫様、ああいう庶民にかかわってはいけません」

「待ってください。私はまだ、彼の名前を聞いていないの」


 アリシアは必死になった。私が買ったビー玉。銀貨三枚。名前も知らないで、どうやってお金を支払えるというのだ。約束したのだ。彼にちゃんと代金を支払うと。


「知る必要はありません。さあ、王宮へ帰りましょう」

「だめ、ダメだったら!」


 結局――

 大人の力に勝つことはできず、アリシアは名前も知らぬ少年から引き離されて王宮へと帰っていった。

 あの日以来、彼女の身辺警護はより厳重になり、王宮の外へ出るような隙はなくなった。


 髪の毛の長さは、今もあの時と同じ位置で切りそろえられている。


 もう、二度と――。


 あの少年には、会う事はできないのだろう。

 アリシア・フェルビナク。

 五歳の冬の出来事だった。



 ***



 あれから十年後。諦めるしかないと絶望した今になって、あの時の少年に似た男が現れた。

 クレアが連れてきた男の方は、あの時の少年なのだろうか……?


 だとしたら。

 うれしい。とてもうれしい。あの時の借りを返すことができるから。

 私は約束したのにお金を支払わない詐欺師でも盗人でもない。それを証明することができる。


 どうしよう。誘惑にかられてしまう。


 クレアもバックスも信じるには決め手に欠けるが、あの人なら信じてもいいかもしれないと思う自分がいる。何の証拠もないのに。

 あの人に警護されて王都に連れ戻される、どこかに潜伏してひっそりと暮らす、あるいは予定通り魔王様の下へ向かう。そんな旅は、どういう結末になるのだろうか。


 バックス旗下の五百騎の騎士に囲まれて、いつ暗殺されるともしれぬ恐怖の中で旅をするより、あの傭兵さんと二人で旅をする方が楽しいのではないだろうか。


「駄目ね……」


 アリシアはうつむき、首を振った。不純すぎる。

 楽しいとか、そういう理由で自分の行動を決めてよいのだろうか。いいはずがない。


 魔王の花嫁となれ、というのは外ならぬ王の命令だ。従わなければならない。だって自分はこの国の王女なのだから。そして騎士団の護衛をつけると決めたのも父の指示だ。ならばクレアの話を無視するべきではないだろうか。

 けれども、旅が始まれば死ぬかもしれない。

 誰に従えばいいのだろうか。誰の言うことを信じればいいのだろうか。

 これがきっと、自分の生涯のうち、最初で最後の旅になるというのに。


「ハル・ベルナデッド」


 クレアが言った、男の名前を復唱する。


「ハル。ハルさん……」


 口にしたその名前は、ひどく甘美な響きをしていた。


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