第10話 アリシアの借り(前編)

 

『たけつれせらやか、むりまきかちねおそくしせ』


 クレアから手渡されたそれは、一見して意味不明の文字の羅列だった。だからこそすぐに気づいた。暗号だと。

 何故、暗号なのか?

 読まれたくないからだ。自分以外の者には。

 つまりそれは、自分ならばすぐに解読できる難易度の暗号ということになる。

 それらの思考を経て、暗号は最も単純な部類のものだと当たりをつけた。頭の中であいうえおフェルビナク文字表を浮かべ、対応を考える。

 クレアの暗号は、文字の並びが六文字分ずつずらされていた。そこに気づくまで、五秒かかった。


 “た”は“こ”に、“け”は“う”になる。“つ”は、“し”だ。同じように全ての文字を六文字ずつずらすと、“こうしゃくむほん、ひめのあんさつをけいかく”となる。


 復号に、二秒かかった。

 わざわざ暗号を使ったクレアのその配慮が、手紙の内容の信憑性しんぴょうせいを際立たせていた。

 クレアとハルが去ってから、アリシアはベッドの中で悶々としている。

 今夜はとても、眠れそうになかった。


「どうしましょう。私はどうすべきでしょうか……?」


 虚空に向って小さな声で問いかける。もちろん答えはない。


(これだから――)


 アリシアは思った。


(これだから、クレアさんは苦手だ。いつも私に答えを考えさせる……)


 クレアを信じるか、信じないか。それは自分一人で決めなければならない。


 状況を整理してみる。

 クレアは『公爵が謀反を起こし、自分の暗殺計画を立てている』と手紙で告げた。


 


 バックス公が自分を殺害する。それはあり得る話だ。彼は王位継承権を有する国王の甥で、しかも継承権順位は自分よりも低い。逆に言えば、自分がいなくなれば玉座に近づくことができる。

 では、クレアはどうか。彼とは異なり、クレアが自分を殺す可能性はない。動機が考えられない。仮に自分を殺害したところで彼女には何の利益もない。しかし――。


 嘘をつき、バックス公の失脚を計っているのかもしれない。


 王国正規の騎士団を率いるバックス公と、国内にあるギルドを監督し、特に傭兵ギルドと繋がりが深いクレアは政治的な対立関係にあった。バックス公が失脚すればクレアの権勢が増す。逆もしかり。


(できれば、バックス様ともお話をしてみたいけれども――)


「ありえないわ」


 アリシアはそう考え、すぐに自分の思考を打ち消した。

 会って何の話をすればよいのだろう。


『貴方は私を殺すつもりですか?』とでも尋ねるのか。できるわけがない。


 聞かぬまでも、クレアから自分への暗殺の可能性を示唆しさされた今、公爵に出会えば自分は彼を警戒してしまう。そしてその様子は伝わるはずだ。バックス公は国内最強の騎士団を束ね、多数の戦場を渡り歩いた男である。自分の恐怖などきっとすぐに見抜かれる。実際に、本当に、暗殺を計画していた場合、こちらが相手の暗殺計画を察知した事を知られるのは文字通り致命的になる。

 それに自分は、腹芸が苦手だ。すぐに顔に思考が出てしまう


 加えて自分は、あの叔父様とあまり仲が良くない。バックス公は、彼女の父にして国王であるオズワルド王を簒奪さんだつ者と憎んでいるのだ。本来の王位は自分のものだったと。

 表立っては服従しているけれども。


「はぁ……」


 ため息が出た。


(私は言われた事をしているだけなのに、どうしてこんな事に)


 王家に産まれ、国王と無数の教師の言う通りに勉強に励み、そして産まれた時に決められた、会ったこともいない婚約者の所へ嫁ぐように命令されて。


 その結果――


 殺されかけている、らしい。


 結婚のことはどうでもいい。恋愛など自分に縁のなきものだと諦めている。魔王は恐ろしい方というから、最悪の場合、家畜めいた扱いをされるかもしれない。それはどうしようもないからどうでもいい。強姦されて首輪をつけられて飼いなされるのかもしれない。それも、どうしようもないので考えても仕方がない。


 けれども何故、魔王ではなく身内から殺されなければならないのか。


 何もかもが理不尽にすぎる。私が何をしたというのか。いっそ自分の邪魔をする人間を全て殺せる力があればいいのに。魔王様のように。


「ああ、でも、綺麗な人だったな……」


 かぶりを振って、気を取り直す。

 先ほど、クレアから引き合わされた男の事を思い出し、アリシアは感嘆した。


(あの男の人は――)


 目を閉じて、ハルの顔を克明に思い起こす。


(私が今まで出会った中で、いちばん綺麗な瞳をしていた――)


 理屈ではない。


(やっぱり、あの男の人なのでしょうか?)


 十年前に、男と出会った。今日会ったあの人と同じくらい、綺麗な瞳の男に。

 当時の自分よりも年上で、今の自分よりも若い少年だった。

 それはきらびやかな聖誕祭の日の出来事だった。



 ***



 十年前。

 アリシア・フェルビナク、五歳の冬――



 近衛兵の目を盗んで、産まれて初めて街に出た。

 聖誕祭を祝う飾り付けをされたモミの木の前で立ち止まって、てっぺんのお星様の飾りを見上げる。その飾りは、一目で真鍮しんちゅう製と分かるくすぶった金色。でも、とても素敵な色。


 視線を少し下にすると、垂れ幕に書かれた文字が視界に飛び込んできた。


『聖誕祭セール中。本日限り全品、せいいっぱいにお安くします』


 わあ、と口から知らずに歓声が漏れた。

 庶民はこういう時にたくさん買い物をするのだ。


 露店に並べ立てらている無数のガラクタ、一目で質の悪さが分かるガラス細工も、見るからに貧相な染料で作られた織物も、中古らしいくたびれた衣服も、何かの薬品で処理されたらしい不自然な艶を持つウィッグも、とてもすばらしいものに思えた。


「ああ、でも、どうしましょう……」


(私は、お金を持っていないわ)


 欲しいと言えば何でも買ってもらえる環境で過ごしただけに、アリシアは産まれてこの方、金銭を所持したことがなかった。さすがに使い方は知っている。一般教養として教師から教えてもらったから。言い値を聞く。金貨を多めに差し出す。商品とおつりを貰う。終わり。


「あ、そうだわ」


 良い事を思いついて、当時のアリシアは笑顔を浮かべた。


(私のこの髪を売りましょう)


 毎日、専属の侍女メイドによって丁寧に丁寧に手入れされた、自分の金色の髪の毛。変なクセもついていなくて、長さは背中の半ばまである。多くの貴族から賞賛された砂金のような髪だ。きっと売ればそこそこの値段がつくはずだ。相場がいくらなのか、全くわからないけれども。


 聖誕祭を祝うこの喧騒の中で、アリシアは何かを買いたかった。


 安っぽくていい。人がガラクタというようなもので構わない。

 誰かに差し出された物ではなく、自分自身の意志で選び取った物を、彼女は手に取りたかった。これは私の物だ。私が買った、私だけの物だと言えるものを持ちたかった。


 だから、まずはお金だ。交渉して、私のこの髪を買い取ってもらおう。見知らぬ大人の人と話をするのは怖いけど、勇気を振り絞る。深呼吸。すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……。気分が落ち着いてきた。大丈夫。私はやればできる子のはず。


「あの……!」


 やった。露店の店主に声をかけることができた。髪の毛もむさくるしいひげも白くなった、年配の人。生誕祭の時にプレゼントを運んでくれる妖精みたいに太っていた。


「どうした、お嬢ちゃん?」

「わたしの――」

「おっと、悪いなおっさん。この子は俺の連れなんだ」


 いきなり、声がした。見知らぬ男の見知らぬ声が。護衛の近衛兵の人ではない。毛むくじゃらの汚らわしい手が、少女アリシアの口をふさいだ。もう片方の手が、強い力で少女の腕をとり、そして彼女は反抗する間もなく男の肩にかつがれた。


(え、えっ、えっ…?)


 訳が分からない。目を白黒とさせるアリシア。男が走っていく。男にかつがれたアリシアの周囲の風景が目まぐるしく揺れる。

 さらわれた? ようやくそのことに思い至る。そうだ、声を、声を出して助けを――。


「だれかっ!」


 その声が、途切れた。男がその武骨で汚らわしい指を少女の口に突っ込み、しゃべることを妨害していた。


「ぁっ、ぐ」


 殴られた。痛い。


「クソガキが、黙ってろ殺すぞ!」


 男が走りながら、アリシアの頬をなぐりつけた。何をされたかわからず、少女は涙を流した。怖い。痛い。助けて。誰か、誰か……!


 パァアアアン!


 耳をつんざくような音が、周囲に鳴り響いた。アリシアを担いでいた男が突然倒れこみ、彼女もまた石畳みを敷き詰められた街路に身体を投げ出された。


「ぐ……くぁあああああ!」


 男のうめき声。倒れ、転がった際にできた擦り傷と打撲の痛みに顔をしかめながら、アリシアは自分をさらおうとした男の方を見た。肩を抑えて、叫びながらごろごろと転がっている。血が、押さえ込んだ手からにじみ出て、男の汚らしい服の肩口から袖にかけてを赤く染めていた。


「祭りの最中に無粋な真似してんじゃねぇよクソが」


 若い男の声がした。

 まだ声変わりしていないであろう、少年の声だった。


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