第34話 妻籠の垣 【第二章完結】


 大阪城。女だけの宴は深更の中にあった。

明日の月が登りはじめても、女たちは小袖の意匠や夫の愚痴を語り合い、時には世を嘆き、幾度も盃を交わし合った。


 当時の日本と欧米文化を比較し記録した宣教師ルイス・フロイスは、

日本人の食事と酒についてこう記している。


 『日本人は幼い頃から手を使わずに二本の棒を使って食べる。我々のように手を使うのは下品だとされる。

反面、ヨーロッパでは女性が葡萄酒を呑むのは礼を失することになるが

日本の女性の名誉が飲酒により傷付けられる事はない。時には酔っ払うまで呑む。』


 先ほどまでは雲と月を眺めては歌を詠んでいた貴婦人たちが、

今は裾を割って腰巻が見えても恥ともせずにいる…。


 (昔の女性は、おしとやかだと思っていたけど…ひょっとしたら現代の女性よりおおらか…かも)


 学生時代の多くの恥ずかしい思い出が自制をかける朝子は、楽しそうな夫人たちを遠目に…ふと…この酒気にまみれた狂乱の大座敷のすみで、同じように静かに座した女と目が合った。


 ▽


 「貴女様には、いつかお礼を申したかったのです」


 黒目と白目の境がくっきりとした瞳が、朝子を見上げる。深い夜に覗かれているような気持ちがした。

大座敷のすみにいた女性は細川忠興の夫人、たまと名乗り、朝子に向かって手を合わせた。

 バテレンを信仰しているから、酒は好まずこのような宴も興味がないと言う。


 「あの…お方様…お礼とは…?」


 色々と疑問が湧いたが、一番解らない事から消化していくことした。


 「妹のお辰を…変事のあとに庇護してくださったでしょう。」


 「…お辰様のお姉上君でございましたか…」


 彼女の父は、後世にも知られた明智光秀。

そして今は細川藤孝のちの幽斎(足利義輝にそば近く仕えた教養のある人物として知られる。)の息子、忠興の妻だった。

 忠興も、生まれ持った高貴さに加えて、その俊才を織田信長に愛された武将だった。


 玉と忠興の縁組は、織田信長による政略結婚だったが、美男美女の二人は女雛と男雛のようだと信長も絶賛するほどで、それは似合いの仲の良い夫婦だったと云う。


 しかし順風満帆だった玉の運命を変える出来事が起こる。

 —本能寺の変

である。

 彼女の父である明智光秀が主君織田信長に謀反を起こした日本史においても重要な事件だ。


 光秀の娘婿の細川忠興、親交のあった藤孝は嫌疑をかけられるはずだった。


 しかし流石は足利幕府に仕え多くのまつりごとの狭間を生き抜いてきた男である。

変事が起こると藤孝・忠興はすぐさま剃髪し、信長の喪に服し、光秀の娘である玉を丹後に幽閉。

 明智方と関わりのないことを広く世間に示したのだ。

 その素早い政治的判断により、

光秀の婿である忠興に何の処罰も下されなかった。

 同じ光秀の娘婿で、朝子の元に落ち延びてきたお辰の夫・津田信澄とは大きく異なる。


 

 「人を庇うのは、簡単なことではありませぬ。

 勇気が必要ですから。」


 玉はそう寂しそうに笑った。


 最近まで藤堂家で庇護していた津田信澄の寡婦、お辰の波乱の運命を見れば、玉は幸運だったといえる。

 …が、彼女にとってはどこまでも優しい父だった光秀は無惨に竹藪の中で落命し、

信頼していた夫に寂しい山中に幽閉された混乱と屈辱の時間は、

生粋の武士の娘である玉の心を深く傷つけた。


 「お方様…」



 「人はみな神の子、つまり同胞はらからとデウスはおっしゃったそうじゃ。

…そなたさまはどう思う?」


 朝子は思わず返答に窮した。玉の瞳は果てしない闇のように朝子を覗き込んでくる。



 「藤堂夫人」


 そんな朝子と玉の間に、若い女の声が割って入ってきた。


 「お腹様…」


 「淀の方様」


 茶々であった。

二人は深く平伏し、朝子はそのまま茶々に呼ばれ、玉と別れた。


 「またいつか…お方様」


 玉は微笑んで別れを告げた。


この時すでに彼女は、死をもって、もつれた夫婦のくびきから抜け出そうと決めていた。





 「お茶々様、産後もおするするとお元気になられたようで…何よりでございます。」


 本当のところ、お立場上分厚くなった白粉で、顔の色など見えないのだが…

 大豊臣のお腹様として立派な振る舞いを見せる茶々の様子は、大阪城に上がった頃から彼女を知っている朝子には感慨深いものだった。


 「皆様のおかげです。

…それより、あの細川の室とは何を?」


 「世間話をしておりました。」


 「そう…あれは切支丹ゆえ、近づいてはならぬ。

殿下が、南蛮の者どもは唐国を越して日の本まで狙うておるとよく申しておるゆえ。」


 「はい…茶々様、気をつけます。」


 世界史で習った西洋列強の脅威を、稀代の戦略家である秀吉はよくよく感じ取っているようだ。

しかし…茶々様はそれ以外にも何か気にされている様子だ。


 「……!」


 あ…、と朝子は気づいた。細川忠興夫人は、彼女の伯父信長の仇の娘とも言えるのか…

 ただ、その信長は彼女の父浅井長政の仇でもある…。


 (複雑なお心でいらっしゃるのね…)


  『……私は、戦などまことに醜いものに思うのです。

 あの、おぞましさ…

 血気盛んだった兵どもが日を追うごとに意気消沈し膝を抱える様、

 針で突けば爆発しそうな苦しみと、城内に蔓延する血の匂い…

 赤子が泣く、でも、その父は死に、母は首化粧をしていて、抱きあげられる事もないのです。』


 

 水面に向かって嘆く、あの日の素顔の茶々様が思い出された。


 





 「茶々様、私時々思うのです。

…世の流れとはいつも人の心の外へ流れます…

けれど…」


 「……。」


 「生きていて永遠に悲しい訳ではありません、

幸せを探して拾いながら、最期に生きたと言えたら…それは上々の人生だったと言えるのではないかと…。」


 「…朝子様は、僧のような事をおっしゃるのですね」


 「私は子供もおらず、まさに尼僧のように暮らしていますもの。」


 自分の立場を嘆くつもりはなかったが、つい朝子はそう溢した。

茶々は悲しそうに朝子を見つめた。


 「…妻とは、女とは、むつかしいものですね…」


 時の権力者に見そめられ、世子を産み、美しい絹衣に包まれていても、

茶々の本心は誰にも解らない。


 「……北政所様が、大阪に留めた大名の妻妾らは小田原へ参るように殿下より御触れがあったとおっしゃっていました。」


 「まぁ…」


 「朝子様も参りましょう?

私、東国へは初めてでございます。」


 「…茶々様、」


 「ね、お願いでございます。藤堂殿もお待ちしているはずですわ」


 …東国の空は広いだろうか?

 いつか茶臼山から眺めたこの巨城の内側から見える夜空は、ひどく狭く見えた。女たちは未だ深更の中に取り残されていた。





⬛︎いつも閲覧、コメント、レビューありがとうございます。

更新の日が空いてしまいすみません。

そして、連載一年で★119になれるなんて、驚いています。こんな零細小説を読んでくださりありがとうございます。

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