第三章 東風

{北条征伐〜東国の女たち、九戸政実の乱など}

第35話 御陣妻/韮山城攻め


 天正18年、天皇の施策遂行者として関白秀吉は北条氏への征伐を開始。


 藤堂佐渡守高虎は、大納言秀長の名代として北条征伐に参陣し織田信雄の指揮下に加わっていた。

 …攻め落とす、その目標は韮山城。


 この地に対照的な三人の男が立っていた。


 まず、織田信雄は故信長の次男で、秀吉によって全てを奪われた上に

後世には処世の選択を誤ってしまった『おぼっちゃま』と描かれる事が多い男だ。


 反して、高虎は、歴史小説家などに「厚顔無恥」「風見鶏」と称されるほどに道を一つも間違わなかった。

本人の心が分からぬ今、わかる真実は必ず最良の結果をもぎ取る男だったという事だけだ。


 …そして、韮山城を守る北条氏規…

幼少の頃より今川家の人質として過ごした苦労人であり、才能に恵まれながら、

栄華の日々が映し出された舞台の上で、斜陽を浴びて立ちすくむ北条家のために戦っていた。




 高虎は…主君の今にも泣き出しそうな顔を思い出していた。


(あんなことを、あのような悲しそうな顔で言うお方では無かったのに…)



 「信長公には、水を差せるものがおらんかった。兄者にとってのわしのように。兄者も、それを失ってはならんがや」


 高虎を見送る病床の秀長は、高虎の武運を祈ると共に、そうこぼしたのだ。


 …病で気弱になっているのだ。と、高虎は飲み込んで、木々の隙間から城を睨み、案ずるのを辞めた。


 韮山城は、築城者不明の城であった。

近頃その縄張りの才を世に轟かす高虎は城を見ればどう造ったのか?つまり、どこを崩されるのが痛いのか…?と、じりじりと獲物を狙い尾を振る虎のような目で石垣や櫓を見つめた。


 俺なら、ああする、こうする…と考えながら畿内の生まれの彼には全てが珍しい東国の山野の中を彷徨うように歩いてみたりした。


あの木は、

あの川は、

あの鳥は、

あの花は…


 物見遊山の心地ではなく、城をとりまく全てが彼には重要なのだ。


 武者が首をあげるには、己を取り巻く環境全てを理解して敵の心を突くのが重要だった。

あの木、あの藪、あの岩…すべてが砦で武器になる。


 そんな韮山城を攻めるにあたって、秀吉がとった作戦は「兵糧攻め」であった。

 敵の城をとりまくように「付城」という拠点を複数設置し、兵糧や援軍を断つ…

高虎も若き頃に参戦した「三木城」「鳥取城」も同じ軍略を用いて墜とされた。


 (韮山城攻めの総大将は…信雄公…付城の造営を任せてくださった)


 作戦を成功させるため、秀長の名を汚さぬため、高虎はいっそう気を引き締める。

信雄の指示をつぶさに聞き届け、高虎は懸命に働いた。



 「関白殿下のご威光とはまことに…戦さ場とは思えませんな」


 隣で感嘆の声を漏らす近習に高虎は頷いた。

関白秀吉は北条征伐の大義を誇示するために、帝の勅使を迎え、茶頭千利休の愛弟子の山上宗示や、能役者・遊女、そしてお腹様の淀の方を呼び寄せ「天下人のいくさ」を見せつけた。

 配下の大名にも夫人や身の回りの世話をする侍妾を呼ばせて、遠征でどうしても士気が下がる武士たちの心を慰めることに成功していた。


 「ああ。しかし、やはり戦巧者であらせられる。兵站の見事さをみよ、二十万の兵糧に、あの馬の数…。戦はやはり、数だ。それを分かっていらっしゃるのだ。」


 高虎は言いながら、果てしない徒労を感じた。自分でも不思議だった。少し前ならば、全身の血管が茹で上がるような高揚を覚えたというのに…


 「…殿、この遠国で戦ばかりしていては体に毒が溜まりますぞ。

奥方様は婦人の鑑のようなお方…悋気など覚えますまい。」


 藤堂の縁戚の者だから、遠慮がない。

血の繋がった後継を見たいのだろう。高虎にふさわしいたちを抜け目なく探しながら、至極真面目な顔をしてそう言った。


 「遊びが過ぎて、鼻がもげても知らんぞ。」


 高虎は冗談めかしてかわすと、自分の陣屋に戻っていった。



 (…此処では未だ桜が咲いているのか…)


 散り始めた花弁を照らす月はおもかげに似て、硬い鎧に触れても指が覚えているあの肌を思い出させた。


 「殿、おかえりなさいませ。」


 陣屋の入り口で侍女のお春が頭を下げて出迎えた。

この者の忍び働きにはずいぶん助けられていた。


 「…?なんだ」


 いつもは戸を開けて、すぐに武具を脱がす手伝いをしてくれるのだが、今日はぴたりと戸の前に縫い付けられたように動かなかった。


 「へえ。今日は殿のお世話は他の者があたります。よくよく気の利いたおなごです」


 どいつもこいつも…人を盛りのついた犬のように思いおって…と高虎の喉から怒りが飛び出る前に、得意の身のこなしでお春は下がってしまった。




 仕方なく陣屋に入ると、ありふれた御陣女郎のなりをした女がこちらに背を向けて座っていた。


 唐輪髷で露わになった白いうなじに遊女が好んだ疋田鹿の子の艶かしさよりも、

ぴんと座る背中から漂う凛然さが優っている。


 (しかし…)


 「お女郎殿、花代は渡すから、更衣だけ済ませてくれたら下がってくれ。」


 「…はい、」


 遊女は困ったように返事をして、こちらを振り向いた。


 

 「…お許しください、お春が高虎様が喜ぶというものですから…こんな姿で…」



 (妻にそっくりだ)

 高虎は数秒本気で感心した。が、こんなに赤面する遊女などいるはずがない。

 (ああ…本当に…)

 さきほどの疲労が心地よいため息になって高虎から吐きでた。遊女…朝子は不安そうに見上げたあと、高虎に三つ指をついた。



 各大名の妻妾たちと共にはるばる東国へ夫のもとへ来たというのに、

面白がって近しい家臣は高虎に伝えずにいたようだ。


 「初めて参りましたら、戦さ場とはまことに過酷なところでございますね…

すぐに下がりますから、ゆっくりお休みになってくださいませ。」


 高虎は押し黙ったままだ。


 朝子はたまらなくなって、さっさと着替えを手伝って下がろうとそばに寄る。


 「高虎様…」


 御無礼致しました、と続けようとすると、陣羽織に触れた朝子の白い手を高虎の傷だらけの大きな手が掴んだ。


 ひさしぶりの暖かい夫の手にほっとしていると、首を思い切りあげないと見えない夫の顔が目の前にあった。



 「お女郎殿、先程の話はなしだ。今夜は立てをつけさせてもらおう。」

 


 篝火がちりちりと高虎の深い眼窩の中で燃えている。近づけば近づくほど血の匂いがして思わず身がすくむ、その恐ろしさをかき分けて、優しく優しく自分の名を呼ぶ夫の声が耳をくすぐった。



《※》

花代…線香代、玉代、とも言い芸妓や遊女の時間制の代金です。

戦国時代、戦乱で夫を失った女たちが「墓に手向ける花を買うお金を…」と男たちに呼びかけたからとも言われています。

立て花…一日分を買い切る事


 氏親は戦後許され、豊臣家に仕えます。のちに信雄と氏親は、後に名護屋の陣で再会します。


いつもレビュー、反応ありがとうございます。

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