第19話 次代への鍵
天正14年の晩秋——新しい帝が即位されたとあって、京はもとより、大阪や畿内は沸いていた。
天下に轟く実力者の関白豊臣秀吉は、勤皇家であり、非常に朝廷の権威回復に力を注いでいたし、上杉景勝も臣従を示し、とうとう徳川家康も秀吉に首を垂れた。
東国では未だ南部氏、伊達氏、北条氏などの名門が豊臣家への旗色を明らかにしていなかったが、
上洛させた実力者である徳川家康にその関東政策を委ねた事で、間接的に東国への牽制も示し続けている。
しかし未だ豊臣家は、東国大名たちに対しての姿勢を明らかにはしておらず、彼らは中央で大きな権力が出来上がっている事を感知しながらも、未だ『守護地頭』の頃の価値観のまま、領国経営の為に相争う日々だった。
天正15年になって漸く「惣無事令」を発し、秀吉は日本国を束ねる天下人としての政治的意向を明確にし始める。
『七度の餓死に遭うとも、一度の戦にあうな』
ということわざがある。戦争は人の命を奪うばかりか、国の力も削いで行く。
日本は、東の果ての島国である。大陸の先進物を受け入れ易く、海運や航空機が発達しなければ侵略し難い立地である一方で、
日本列島を背骨の様に山脈がつらぬき、国土の3分の2を山林が占め、地震や台風などの災害も多く、生きていくだけで勤勉さと忍耐が必要な国であった。
天正14年にも近畿では大きな地震があった。加えて長く政情不安が続き、力がものを言う時代が続いている。
国民は常に飢餓と闘争にさらされ続けた。
それ故に、秀吉による都の復興と鎮撫を目の当たりしている人々の喜びは、針で
そんな世間の喜びの影で、高虎は但馬大屋郷に向かって手を合わせていた。
母のおとらが亡くなったのだ。
「…俺はとんだ親不孝者だった。放浪していた頃から叱咤して下さった母上を、城の中で楽な暮らしをさせてやれず、とうとう一人知らぬ土地で死なせてしまった…。」
高虎は、隣に座した妻にこぼした。
「…義母上様はいつも、高虎様のご活躍に喜んでおりました。便りのないのがよい便り、と仰せになって…。」
「……そうか、母上らしい物言いだな。」
高虎は、母に瓜二つだとよく言われてきた。
おとらは、丈高く立派な体格で、近在に聞こえた学識も備えた女性だった。
京極家に仕えた多賀氏の生まれで、早くに父は戦死、母は再嫁し、実家に残されている所を、高虎の祖父に当たる藤堂忠高の養女として迎えられた。渡り奉公人であった三井源助虎高を婿として迎えるにあたって、縁を繋ぐため、浅井家の養女分となったと言う。
そうして、藤堂家の為に内実共に働き通した人生だった。
幼くして父母と引き離され、様々な思いもあった筈のおとらさまの人生……
(一度だけご自分の半生を語ってくれたけれど、絶対に弱音は吐かない方だった…)
朝子は高虎の中にその面影を見出していた。鋭角的な輪郭に収まる、彫りの深い鋭い瞳は、義母上様にそっくりだ。
この世に紛れ込んだ自分に全てを教えてくれた夕子様と並んで、
時には厳しく、時に優しく、いつも子を産めない朝子の味方であってくれたおとらの死は堪えるものがあった。
「……泣くな、そうだな、お前は先に父母を喪っていたのだな。」
「そんな…」
気付かぬうちに涙が目に溜まっていたようだ、本当に父母を亡くしているのは「身代わり」の私ではなく夕子様であり、
私の父母は生きてはいるが、きっと、もう二度と会えない……そんな、輪郭のない悲しみに言葉を詰まらせる。
近頃、どうも感傷的でよくない、と朝子は自分に呆れるが、高虎は自分が功名を得る為に走り回っている内に、
母のそばで仕えてくれた妻が、母の死を悼んで事が何よりの供養になる気がした。
(…兄上に、彼岸で会えているだろうか。)
政略のために寺を復興する事はあっても、数多の戦を切り抜けて生と死の狭間を見てきた高虎は、手放しで信じられない「あの世」の存在を今ばかりは祈った。
▽
夕刻、徳川家康は上洛果たし、檜の香りの心地よい屋敷に入った。
(妹君だけでなく、
臣従に反対する家臣、臣従すべしという家臣、それぞれの意見に心が潰されそうになりながらも、どうにかして「徳川」を守るための選択をした。
なるほど確かに、関白秀吉公と言う方は大人物なのだろう。家康のために建てたこの屋敷は、見事という他ならない。
家康の屋敷は「
(しかし…邸宅というよりは城郭では…?)
聚楽第は金箔瓦に白壁の外観に、襖絵や天井は牡丹や桜花と言ったうるわしい花園を狩野永徳などの画家に描かせ、まことに華やかで天下人の邸宅にふさわしい。
…が、四方は櫓と堀に囲まれ、さすがは名築城家であり戰巧者である秀吉公の住まいである、と息を飲む威容を誇った。
大きなどんぐり眼で屋敷を見回していた家康は、ふと立ち止まり、顎に手を当てた。
「藤堂殿をお呼びしろ」
と、言い放った。家来衆は秀吉子飼いの綺羅星のごとく並んだ武将の名前を一つ一つ思い出したが、『藤堂』を見つけられず、
はてという顔をして立ったり座ったりを繰り返した。
「…関白殿下の御弟中納言様の家老じゃ。この屋敷を普請してくださったお方である。」
家来は急いで、使いを出した。
「徳川殿。藤堂与右衛門高虎にござります。」
座っていても小山のような迫力がある。
なんとも押し出しのいい男だ、これは派手好きな秀吉公が可愛がっているだろう。と、家康はしばし男を眺めた。
呼びつけた家康がいる書院には、
榊原康政や酒井忠次と言った歴戦の家臣も揃っているというのに、
まだ30そこそこに見える藤堂高虎という男は些かの「畏れ」も見せない。
「藤堂殿、この度は此方の屋敷の作事、感謝申し上げる。私には勿体ない。」
しかし、ただの武辺の大男ではないようで、家康の口ぶりに含みがある事を察したようで、
そのくっきりした眼差しを細め、高い鼻梁にシワを寄せ、黙って家康を覗き込んでくる。
「藤堂殿、この屋敷は関白殿下が事前にくださった設計図と、
門の構えが異なるようじゃ。何故か、お伺いしたい。」
家康は、この微妙な政治状況で、些かの不安も残したくなかった。
武将にとって、屋敷はただの家では無い。有事の際には、死に場所となるかもしれぬ住処だ。
藤堂高虎は、余りにも真っ直ぐな問いに、
「はい。仰せの通り、それがしの独断で変更致しました。
理由を申せば、徳川殿の御身のためでございます。京洛は、関白殿下のご威光の賜物、平穏でござりまするが、これから長い間徳川殿にお住まい頂く事を考えますと、
最初の設計通り外門が無ければ、不慮の折に天下の徳川殿をお守りできぬと考えました。
もしものことがあれば、我が主君秀長、ひいては関白殿下の面目にも関わると存じ、それがしが全くの出過ぎで付け加えました。
もしもお気に召さなくば、この高虎をこの場でお手打ちにしてください。」
きっぱりと返した。
いかにも切れ物という些か細面の鋭角的な顔で、肉体はいますぐ刀を抜けばこの場のものを血まみれになって斬り殺せそうな大男が、
慇懃無礼にそう言うのだが、
そんな高虎の言葉には妙な真実味があった。
(この者は心から自分を案じて作事を進めてくれたのではないか)
と、苦労人で数多の人間の『横顔』、盛衰を見つめてきた家康は思った。
「いや、藤堂殿、悪かった。この家康の穿ち過ぎであった。
面識もない我らへのお心遣い、痛みいる。」
家康が栗色の目を細めたのを見て、高虎は
「こちらの出しゃばりでした。
…出しゃばりと申せば、この高虎と、徳川殿は、以前お会いしております。」
「なんと、わしはもう初老故、失念していた事をご容赦願いたい。」
「なんの、もっこ担ぎになりすまし、徳川殿の城を偵察していたのでございます。
覚えていらっしゃったら、門を造る前に、お手打ちにされておりました。」
高虎は、口角をあげて家康を見上げた。これには、家康も、ただ目を見開く事しか出来なかった。
(この方は、殿下にも、秀長様にもない、親しみのようなものを感じるな)
心にもない事を言うのも、仕事に邁進する余り周りが見えず独断をしてしまう事も、反省すべき事だと自戒しながら、
高虎は家康と知己を得た事を、心の底で喜んでいた。
徳川家康と藤堂高虎の縁は、これより何十年と続く事になる…——
夫が呼びつけられていれば、妻も施政者には逆らえない。
以前話が上った「浅井家の姫」のお衣装を見繕うために朝子は大阪城にいた。
「くるしゅうない、此度は頼みます。」
落ち着いた、穏やかな声だった。あのお市様の娘には、思えないほど。
《※》
とらの死…藤堂高虎の生母の妙清夫人(とら・盛)は転生14年までに亡くなっているそうです。正室の一色夫人が看取り、一色夫人の故郷で高虎と夫人が結婚した但馬大屋村の栃尾家(高虎と夫人の媒酌人)の家の近くに葬られたと伝わります。高虎の父虎高は後に継室の宮﨑夫人を迎えているためか、とら夫人の墓は見つかっていません。再婚離婚がよくあった戦国時代とは言え、大名にまで出世した藤堂高虎の生母の墓が見つかっていないのは不思議な事です。しかも、高虎と生母とらの逸話は多く残っているので、不仲であったとも考えられず、高虎や藤堂家は手厚く葬ったはずです。
もしかしたら、虎高ととらは高虎が粉河城で城を持つ時期には離縁していたか、継室の宮﨑夫人に憚り、墓を移したのかもしれません。
悲しいですね…
浅井の姫…通称、茶々は、言わずと知れた戦国の女性の代表的存在です。
俗説では、お市を好きだった秀吉が…とかお市に一番似ていたから最後まで手元に残されたなんていうドラマにしやすい題材にされがちですが、
お市や織田家自ら三姉妹の庇護を願っていたら、記録には茶々が最後に秀吉の側室になった時期が無いことから、当時は権威を無くしていた浅井家、織田家の縁組事情であったと考えるのが妥当でしょう。
あとがき
(従来には無い「茶々」と「秀吉」を描いていきたいです。
この二人を一番書きたかったのです!)
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