第13話 女の道
紅をさした唇がうまく上がらない。
藤堂高虎は賤ヶ岳の戦いでの戦功により、秀吉直々に1000石、秀長より300石を加増され、4600石となった。
…もはや、花嫁支度を手伝ったお市様を間接的に追い詰めた事に嘆くのはやめよう、血だらけになって駆け回ってきた夫を間近で見てきた朝子は、ただ夫の事を考え、奥歯を噛むように口角を上げた。
そして、眼下の女性は…
(やっぱり、この人は高虎様にそっくり…)
「
いつも気丈で、凜然とした女性だった。だからこそ、布団の上で土色の顔をしているのは似合わない。だって、とら夫人はまだ四十そこそこで、朝子の実母より年下のはずだ。彼女の世では、まだまだ働き盛りの女性として活躍する筈の年齢だ、でも、この戦国時代では…晩年なのだ。
「お朝さん…」
「あ、義母上様、どうか横になったままでいらしてください…」
朝子の姿を認めて、起きあがろうとしたとらをどうにか寝かせる。
(義母上様の肩…なんて薄い…)
なぜ、ただの会社員が戦国時代に来てしまったのかと、朝子は天に向かって嘆きたかった。せめて医療などの知識があれば……そこまで思い詰めて、自分の傲慢さに辟易した。
「息子はどうしておるかのう…」
そう呟くとらの眼差しに、朝子は覚悟を決めた。
「…高虎様に、妾をすすめようと思いますが、義母上様にはよい
とらは目を見開いて朝子を見た。縁組をして三年余り、確かに、息子夫婦に子宝は無かった。
内孫をこの手に抱きたいという夢が無いわけでないが、だからといって嫁を替えたり、妾をとっては…とは現実的に考えていなかった。
「朝子殿…そなたまだお若い身なのだから…」
朝子は高虎と同年の筈で、まだ子供を諦めるのは早かった。ただ、戦国時代の女性としては子供の一人や二人はいて当たり前の年齢だった。なにしろ無痛分娩も帝王切開も無い医療体制の中で出産するのである、初産は体力がある方がリスクが下がった。
「いえ…私はどうやら子が出来ぬ性質のようでございます…実家に帰されても文句は言えませぬ。
もしも高虎様が望むなら、そうなっても良いと思っております。」
「お朝さん…そのような」
とらは、『武門の勤め』を果たしてきた女だった。跡取りも娘も産み、『おとら上臈』と謳われた学識と胆力で家を切り盛りしてきた。
でも、それだけが人の道だと思うような頑迷な女ではなかった。
俯き加減で正座をする嫁の姿は、雪下の水仙のように儚げで美しい。家柄もよく、気立てもよく、これで子宝さえこの女にもたらされれば、どれほど完璧かととらは心中で嘆いた。
「……何事も急いてはならぬ。三年と申しても、不詳の息子はあちこち走り回っていて、そなたと過ごす時などなかったでは無いか。
女の体は巡りというものがあるゆえ…とにかくもう少し待たれよ」
「義母上様…しかし…」
「奥方様!!失礼致します…!!!!」
二人の間に、珍しく焦った様子の、一色家より帯同した
「どうしたのじゃ…」
とらが頭を抱えながら聞くと
「…落人が…」
「なんと…」
「
歯切れの悪い幸手局に、とらは朝子に対面するように促した。
「奥方様…御目通り、感謝します。」
「…は、はい」
ぼろぼろの小袖に、まだ一人で歩けそうにない子供を抱えた女が、頭を下げた。
その女性は「お辰」と名乗り、明智光秀の四女だという。朝子の価値観からすれば、少女と言って良い年齢に見えた。
「藤堂与右衛門様は私の夫に以前仕えてくださっておりました…」
お辰の夫、
信長に謀反を起こした弟の子息であったが、信長の右腕と目された有能な男だった。
しかし、明智光秀と、妻お辰を通じて義理の親子であったことから、本能寺の変に共謀していると噂を流され、織田一門の手により非業の死を遂げ、京の三条河原に首を晒された。
28歳という若さであった。
このお辰は17歳で、頼るべき夫も実家もいっぺんに失ってしまったのだ。
哀れな様子にすぐにでも庇護を申し出たかったが、こればかりは自分の一存で決められない。
朝子はすぐに高虎の元へ向かった。
「なんと…信澄殿の妻子が…。」
高虎は一瞬眉を潜めた、その表情はかつての主君の妻への哀れみでは無いような気がした。
「まだ赤子と言っていい御曹司様を抱えておりまして、ご自身もおやつれになって…」
「そうか」
朝子の言葉に、高虎は複雑そうだ。織田信長の後継者として、政治の中枢に食い込んでいく秀吉公や秀長様に仕えている故に「謀反人」の一族を庇うのは得策では無いのだろう。
「…秀長様にお伺いしてみよう」
「そうですか…!」
朝子の安堵した表情に高虎は小さく息を吐いた。
「信澄殿の御妻子か…其方の旧主という事もあるからのう…よいだろう、信澄殿の関与はただの噂であったしな」
直後の厳しい明智の残党狩りから反して秀長は温情を示した。お辰の一つ上で、細川忠興に嫁している玉女なども幽閉されているとは言え、命は守られている。
「それにしても、信澄殿とは、そなた良いことばかりでは無かったのに…大人になったのう」
秀長は年長者のやさしさを湛えて高虎を見つめた。
「…妻があまりに不憫だと申しましたので…」
「おお、そうか、奥方はいま来ておるのか?」
「はい。報せを持ってまいりました」
「折が良い、会っておこう。婚礼の日も祝いを出来なかった故な」
待たされている部屋の前に足音が迫る。てっきり高虎が帰ってきたと思っていたが、それは2人分の足音で、もう一つは夫のものより軽やかだった。
「そなたが一色の姫か」
「は、はい…朝子と申します」
小柄な男性が、大きな優しそうな目を細めて立っていた。後ろにいる高虎様は、鴨居に隠れて瞳が良く見えなかった。
「秀長じゃ。いつも与右衛門を借りてすまぬのう」
「羽柴様…!失礼致しました」
まじまじとお顔を見てしまった。慌てて礼を取る様子にも品があって秀長は誠に良い縁組をしたと満足げに頷いた。
「其方に会うのは初めてじゃのう」
「ご挨拶に伺わず、申し訳ございません…」
「いやいや、構わぬ。義姉上様にもよく仕えてくださって、こちらこそ感謝しておる」
秀長公はすっと人の心に寄り添う人だった。これは、それほど愛想が良いとは言えない高虎様が伸び伸び働けるだろうと納得する。
「小谷の
「私はそれくらいしか出来ませんから…」
あのとき話をした人は、もうどこにも居ないのだ。それは残酷な事に思えた。
「お方様は最期に我々に浅井の姫公三人を任せてくださった。
戦とは醜き事、人の命は重いものだ。
あたら命を取ることは誰も望んでおらん」
秀長は絞るように言った。元々が農民だからか、戦を心底では嫌っているようだ。
お市は秀吉に直筆の書状を送り、娘たちの庇護を願ったそうだ。朝子は、やはりあの人は生粋の武家の女だと思った。過酷な人生から、出家させるなり、共に彼岸へ渡るなり、逃すことが出来た筈だ。
だが、お市は三人の娘たちを武門の
娘たちに、血を流して生きることを示したのだ。
一人の人間が生きていく事が、当たり前のことではなかった時代だ。
私は未来で、その自由を、こうして血を流してきた人たちから享受していただけだったのだ。
紅をさした唇をそっとあげて、朝子は秀長の言葉を聞いていた。
《※》
細川玉…明智光秀の娘で、玉「ガラシャ(グラツィア)」は殉教の女性として有名です。ただそのエピソードも布教のために海外で悲劇性を加えられ、実はそれほど熱心ではなく、ただ単に政略の都合上にあのような最後を迎えたという説もあります。
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