第9話 旅人たちの城

 

 織田信長は、琵琶湖の周りの城を安土城を取り巻くように重臣たちに与えていた。

それぞれの城には渡り船で往来できるようになっていて、明智光秀や、羽柴秀吉など、身分に囚われぬ採用により得た優秀な部下たちは彼の期待に応え、それぞれの拠点で彼の事業をよく補佐している。




 正月の間、主 羽柴秀長に帯同し安土から長浜城下に滞在するため琵琶湖を渡る船上で、曇天の空から落ちる雪を見ながら朝子が呟いた。


 「…近江に、こんなに雪が降るとは思いませんでした」


蒼い湖面を切り裂くように船は進む、その波紋も数メートルで小さなさざなみに変わっていく。降る雪も同じだった、そのうちに水に溶けていく。


「体は辛くないのか」


 高虎は、紺色の小袖を被衣かずきにして、白い頬を赤くする妻に問うた。


 琵琶湖から吹き上げる風が冷たく、日本海からの寒気も混じり、春夏の温暖さとは裏腹に、近江の冬は殊の外厳しい。


 朝子はここよりもっと北に祖父母がいて、東京で暮らしていたから平気…と返しそうになったが、

 …防寒具が乏しく床暖もないのは、とても堪える。


 ここに生まれ育ち筋骨に恵まれた高虎は、この時期でも単の帷子で十分だが、

 (綿入れを手配せねば)

 富貴なふくよかさとは正反対の細身の妻をそう気遣った。戦場暮らしが長かったせいか、妻の姿は弱々しく見えて仕方がない。


 それにしても、手紙をもらって、返事をする時はあれもこれもと浮かぶのだが、いざ目の前にすると伝えたかった事が飛び去っていってしまう。


 「高虎様、指が…」


 朝子の声にあっ、と思った。

戦さ場だけに留まらず、一向一揆の鎮圧にも駆り出された高虎はまさに満身創痍だった。民兵たちの死に物狂いの奮戦に、痛みを感じる前に小指を落とされ、中指の爪は無くなっていた。


 (気味悪がったりしないだろうか)


 妻のなめらかな肌にガサガサと引っかかる傷だらけの身体を見せないように

 閨では必ず灯火を暗くするというのに…高虎は眼下の妻を見下ろす。


 「痛くありませんか」


 朝子は高虎の手を取った。中々のグロさなのだが、恐ろしさよりも、不思議と悲しさが勝った。


 「…ああ、大事ない。」


 蜘蛛の糸をより集め、櫛を通したような妻の柔らかな髪を撫でる。いつもは触れると動きを止める妻が、今日はすんなりと受け入れてくれた。


 「貴女からの書状が、なにより励みになった」


 「…北の方様のおそばに筆の上手の方がいて、見てもらったのです…」


 妻の字が、いつもと違うなと思っていた……真摯に教えを乞う姿勢に高虎も素直になろうと思えた。


 「…字の事なのだが…この際…嘘はつかん」


 「はい…?」


 「俺は今まで槍一本で働いてきた。子供の頃から走り回ってばかりで……千字文せんじもんもろくにやっておらぬ…だから、漢字が不得手でな」


 「え…でも」


 いつも、返事の漢字も仮名も立派なものだった筈だ。


 「…秀長様の配下の祐筆に頼み込んでおった。普通、女子が使うのはひらがなだが、貴女は教養高く漢籍も嗜まれる故…」


 阿呆だと思われたくなかった。と、高虎が明後日の方をみて呟く。


 「…そんな、私だって、はじめから出来たわけではありません。だから、」


 高虎様の直筆を頂きたい、と朝子は願った。これが夫に気に入られる手管なのか、自分の本心なのか朝子は答えを出さないようにした。


 「ああ、わかった。」


 頷きながら、なんという女をもらったのだろうと、高虎は内心ため息を吐いた。

 女とは、母のように強く、また女工や女兵のように勇しく、民のようにただ力ない物だと思っていた。


 だが、朝子は、そのどれとも違う。


 たった一人では放っておけないように弱々しいかと思えば、こうして励まし安らぎをくれる、反して前に立って導いてもくれる——それを頼もしく思うが、心の底に夫として、目を離せば飛び去っていってしまうような小さな不安もある。

 





 (王昭君のようだと新七郎が言っていたが…)

 珍しく酒を飲んだからか、ふと、つまらぬ事が頭をよぎる。ぬくもりの残る布団から出て、文机に向かう妻を眺めながら考える。


『王昭君の如き手弱女を』

 秋に、高虎の帰参を祝った宴の夜に、従兄弟の新七郎良勝がそう言っていた。

 この時代「西施」や「楊貴妃」など、中国の故事に擬え人を褒めたりした。それだけ大陸文化は華やかで先進的であり、島国の日本が、文化を貪欲に学び取っていた証でもある。


 「王昭君」は前漢の時代の宮廷の女官だったのだが、西方の匈奴きょうどに和平のために嫁した。中華思想故に、文明より遠く離れた西域に嫁いだ悲劇の女性と語られる。


 彼女がたった1人、琵琶を携え旅立つ光景は数々の画家に描かれ、その悲劇性を掻き立てている。


 高虎は、自分のような武辺の地侍に嫁いだ妻を重ねたのかもしれない。


 しかし王昭君は、宮廷では叶わなかった肉親との対面も許され、漢からきた高貴の女性として、一生大切にされて暮らしたとも伝わっている。

 

 のっそりと起き上がる衣擦れの音がして、振り向くと、高虎が隣に座り込んでいた。


驚くより前に、彼がもたれるようにのしかかってきた。


 「た、高虎様…!」


 六尺三寸…現代なら185cmを超える、大槍や刀を悠々と奮っている男性の体重を受け止めるのは、女性としては体格が良い方の私でも無理だった。

 酔っ払っているようで、清酒の透き通ったような酒の匂いがする。

 本当に潰れてしまいそうな段になって、やっと腕に力を込めてくれ、高虎様は覆いかぶさる形になる。


 「…、…」


 「あの…」


 しばらく朝子の顔を見つめたあと、力が抜けたように隣に寝転び眠りにつく高虎の寝顔は、朝子が知る「普通の男」に見えた。


 でも、その指先も首筋も背中にも、赤黒い生傷が目立つ。


 戦場とはどんなに辛い場所だろう?

精神を蝕むPTSDが戦地や過酷な災害の現場では深刻な問題になっているという。


 戦国時代でも、病名がないだけできっと同じだ。


(……。)


 この地球が回っている事も、登ってくる太陽がどこへ行くのかも、高虎様は知らない。


 でもこの世で彼だけに見えているものこそ、朝子はふと知りたくなった。

 



《※》


千字文…子供の漢字の手本に使うために用いられた漢文の長詩。文字通り千の文字が使われていて、全て違った一字も重複していない教材。

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