第4話

 杉石君の手招きに従って生徒会室を出る。そこに恐れていた美少女で溢れかえる光景はなく、端まで無人の廊下が伸びているだけだった。

 しかし、点在する赤い水溜まりが惨劇の跡を深々と刻んでいる。転がっている生徒はいないので圧殺の犠牲者はいないらしいが、件の美少女は死体すら仲間に変えられるのかも知れず、それを思うとこの寒々しい廊下は酷く不気味に映った。

 足音を立てず、それでいて素早く壁伝いに動く杉石君の後を追う。視聴覚室は廊下の最端にあり、丁度中頃に位置する生徒会室からは少し距離がある。普段ならばなんてことのない距離だが、今は一歩が重く、静かさに包まれた空間が耳鳴りを起こさせる。

 きゅっ。

 早く安心したいと逸る気持ちが足に余分な力を入れ、靴の裏ゴムが摩擦で高い音を響かせた。

 どっと冷や汗が溢れ出し、背筋が一瞬で冷却される。非常時であっても僕の間抜けは変わらない。情けなさと混乱で狂いそうになりながら、それでも堪えられたのは杉石君が右手で僕を制したからだ。唇に人差し指を当て振り返った表情に焦りはない。

「……行こう」

 失態を犯した僕を責める様子もなく平時と同じ落ち着きを見せる杉石君は、十数秒の長い沈黙の後、再び歩き出す。

 しかし、僕の頭は自分の失敗で一杯だ。

 命の危険からくる不安ではない。僕如きが杉石君の手を煩わせた事実が重くのしかかり、不要な緊張が全身の節々を硬くする。

 いつもそうだ。

 してはいけない失態を犯し、他の誰かに迷惑をかける。存在自体が不利益を呼び込んでいる。

 杉石君はきっと僕に囮としての使い道を見出したからこそ助けたのだろう。けれど、廊下を静かに歩くこともままならない僕には命を捨てることさえ満足にできない。

「瑪瑙くん。行くよ」

 腕を引かれる。

 ああ、まただ。

 自責の皮を被った言い訳に耽り、無為に時間を消費した。間違いばかりを繰り返している。

 どうして僕は生きているのか。理解の追いつかない状況に置かれ、訳の分からないまま死ぬ。覚悟が足りず自ら命を絶つことのできない僕にとって最高の死に時のはずだ。

 なのにどうして。

 彼等の枷となるのが分かっていながら、僕は何故、杉石君が進むままに従っているのだろうか。




 幸いにも僕の足音が聞きつけられることはなく、無事に目的の視聴覚室に辿り着くことに成功した。

 杉石君が計画を立てたのだから当然だ。もっとも、彼一人なら余計なミスに足を止めることもなかっただろう。

「下にJCはいないみたいだし、さっさと設置しようか」

 杉石君が箱型のカバーを外す。中には折り畳まれた救助袋が入っていた。カバーの裏には設置方法が記載されており、手順はそれほど多くない。上部を固定して袋を下ろせば直ぐにでも使えるようだ。

 ざっと内容に目を通した杉石君は、初めてとは思えない手早さでてきぱきと組み立てていく。僕が手伝う隙はない。彼はほんの数分で全ての工程を終え、外の様子を確認した後に窓から救助袋を投げ下ろした。

「これで完成か。意外と簡単だったな」

 僕なら急いでも十五分はかかっていたと思う。その間に美少女に襲われ、仕事を全う出来ずに死んでいただろう。

 杉石君はメッセージアプリを駆使して視聴覚室で待つ二人を呼び出すと、長い息を吐いた。

 一息の休息。杉石君に真意を問うには今しかない。

「あの」

「ん? どうした?」

「……杉石君は、どうして僕を助けてくれたの?」

 僕と杉石君は同じクラスだ。しかし、人気者の彼と無能な僕とで立場はまるで違う。会釈すら数える程度の間柄の僕を、彼が助ける道理はない。

 荒れ狂う人の波から、敢えて能無しを選び取った理由。

 杉石君が意味のないことをするとは思えないので、道徳的に許され難い用途で使い捨てるために仲間に加え入れたのだと思う。その点に関して異論はない。寧ろ、役立たずの僕に意味を与えてくれるのだから感謝したいくらいだ。

 だが、その役割を果たすうえで、お前は囮だと明確に言葉にして貰わなければ、いざという時、臆病者の僕は腰を抜かし盾となる使命を果たせない。個人的な都合でしかないが、今ここで貴重な時間を消費してでも聞いておく必要があった。

「瑪瑙くんはさ、一年の時の文化祭、覚えてるか?」

 勿論覚えている。僕のような足手まといにとって団体行事は地獄そのものだ。誰とも連携を取れず、簡単な仕事も任せられない。呆れられ、謗られ、せめて楽しげな空気を壊さないようにと、当日は予備の机が放置された廊下の奥で一日中息を潜めていた。

「俺、勝手に実行委員にされてさ。クラスの出し物も企画しなくちゃならないのに面倒なこと押し付けられて結構キツかったんだ」

 杉石君はいつでも注目の的だ。能力に優れ、人当たりもいい。頼られることは多いのだろう。文化祭のときも、一月前から忙しなく動き回っていた。

「委員会の雑務が忙しくてさ。ようやく片付けてクラスの様子見に行った時、クラス展示の準備が一つも進んでなかったんだよ。理由を聞いてもはっきりしないし、挙げ句の果てに俺の説明が悪いことになってさ。そいつがしてきた質問の答えは、渡したプリントに全部載せたつもりだったんだけどな」

 どれだけ能力が高くとも、全てを一人でこなすには相応の時間がかかる。限られた期間内で事を成すには、流石の杉石君も仕事を分担せざるを得ない。

 そうして、信じて任せた人に責任を押し付けられる。深い悪意はなく単なる愚痴だったとしても、疲弊した杉石君からは酷い裏切りに見えたかもしれない。床を見つめる彼は冷たい微笑を堪えていた。

「で、作業の遅れを取り戻すために残ってチマチマやってた時に、助けてくれた人がいたんだよ」

 傍目から見ていても杉石君に救われた人は大勢いる。悪態を吐いたその人がたまたま非協力的だっただけであって、彼が苦しんでいたら誰かは駆けつけるだろう。杉石君の人望を考えれば何も不思議なことではない。

「ハハッ。やっぱり覚えてないか」

「え?」

「瑪瑙くん、文化祭一週間前の土日にさ、手伝いに来てくれただろ」

「あ」

 言われて初めて、薄っすらと思い出す。そういえば、休日に学校に行き、段ボールを切ったり塗ったりした気がする。

「あん時はホント助かったよ。ありがとう」

 僕はただの数合わせでおそらく役には立っていない。休日という人の集まり辛い時間にのこのこやって来たものだから印象に残っているだけだ。手伝いに向かった理由にしても、用事がなく暇を持て余していたからだろう。杉石君から感謝されるようなことは絶対にしていない。

 だというのに、口元がにやける。褒められたのがそんなに嬉しいか。都合よく自己肯定に繋げる浅ましい考えが嫌になる。すぐに調子に乗る癖が成長しない今の自分を形作っていると理解しているはずなのに。

 未曾有の危機的状況に置かれてなお、卑しい僕は変わらない。気持ち悪いにやけ面を床を見つめて圧し殺していると、部屋の反対側、丁度出入口の方から微かに擦れる音がした。心臓が跳ね、飛び上がりそうな勢いで首が回る。

「おまたせ。準備は出来てる?」

 玻璃さんだった。彼女の後ろには金剛さんが控えている。

「ええ。すぐにでも」

 玻璃さんは頷くと設置した救助袋に近付き中をあらためる。袋の内部は螺旋状に布が編み込まれている。中央に垂らされたベルトを掴みながら布伝いにゆっくりと降下するものらしい。

「最初は誰からいく?」

「俺が行きます。下の安全を確認する役が必要ですから」

「そうね。危険だけど、杉石くんが一番の適任ね」

 上から見下ろすだけでは正確な状況は掴めない。玻璃さんの言う通り、判断力と観察眼が要求される陣頭を任せられるのは杉石君だ。

「次は……そうね、私が降りるわ。その後に金剛。えーっと、メノウくん、だったかしら。貴方には殿をお願いするわ」

 異論はない。本来、殿とは追手を防ぎ部隊を逃すために実力者が務めるべき役ではあるが、未知の美少女に対して対抗する手段はない。時間を稼ぐのは命を捧げると同義であり、ならば最も価値のない者を最後尾に配置するのは当然の采配だ。玻璃さんや金剛さんを差し置いて校舎外に這い出たところで役に立つとは思えないし、金魚の糞の如く杉石君の後ろをついて回るよりかは意味のある死を迎えられるような気がする。

「瑪瑙くんは本当にそれでいいのか?」

「うん。心配してくれてありがとう」

 僕を気遣ってか心配そうに尋ねる杉石君に笑って答える。

 彼は優し過ぎる。世界が今後どうなるかは想像もつかないが、杉石君は必ず誰かに必要とされる。その優しさは僕なんかに向けるべきではない。杉石君は言い足りなさそうにしていたが、深く息を吐くといつもの精悍な表情に戻った。

「……分かった。それじゃあ予定通り、降りたらまずは近くのコンビニに向かおう。今の時間、ここらの人はみんな隣町に出かけてるし、あそこは元々空いてるからな。それほど危険はないはずだ」

 全員が頷くのを確認して、杉石君は救助袋の中に消えた。降下には思いの外時間を要し、一、二分してから抜け出した杉石君の姿が見える。

 杉石君は辺りを確認するとこちらに向き直り大きく腕を振った。とりあえずは安全らしい。玻璃さんが続いて救助袋の中に入る。

「大丈夫?」

 突然、金剛さんに声をかけられた。ぼんやりと外を眺めていただけに事態の把握が遅れ、数秒経ってようやく自分にかけられたものだと気付く。

「うっ、うん。大丈夫」

「そう? 顔色悪かったから」

 土色の顔は昔からだ。不要な心配をかけてしまって申し訳なく思う。

「会長も無事に降りられたみたいだし、わたしも行くね」

 金剛さんはそう言って、救助袋の入り口を広げた。大柄な彼女に袋の口径は小さいらしく、入るのに苦労している。中は更に窮屈だろうから玻璃さんよりも時間がかかるかもしれない。

 もごもごと蠢く救助袋を眺めながら金剛さんが出てくるのを待つ。焦りが湧いてこないのは死ぬ覚悟が固まっているからと思いたいが、実際のところ、未だに当事者意識が薄いだけだろう。嫌なことから目を背け、先延ばしにするのは僕の十八番だ。

 だから反応が遅れる。致命的な失敗を犯し、混乱して悪化させる。

 視聴覚室の引き戸が勢いよく開けられ、汗だくの真珠君が飛び込んできた時も声は出なかった。大きな音に驚くばかりで、他人事にしか感じられない。

 真珠君の後ろでひょこりと美少女が顔を出しても、可愛らしいという感想を抱くだけだった。つい先程、靴音を鳴らし杉石君を危険に晒してしまった時は滝のように汗をかき動揺したというのに。誰にも迷惑をかけていないという慢心なのか、自己保身しか考えていない卑劣さがもたらした結果である。

 真珠君がこちらに向かって走る。僕は微動だにせずそれを見つめ、肩を力強く掴まれても無抵抗に流される。

「どけっ!!」

 肩を押され、前によろける。目前には小走りの美少女がいる。

 白雪のような肌。

 艶やかな黒髪。

 長い睫毛に、ぱっちりした目。

 小ぶりな鼻筋。

 濡れた淡い桜色の唇。

 間延びした感覚の中、抱き留めるように両手を広げた美少女を、僕はただ美しいと、そう思った。

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